近年、仕事に悩む医療・介護従事者が増えています。本記事では、医療・介護業界の将来を見据えながら、そこで働く人たちへ向け、仕事への取り組み方や問題解決の方法を紹介していきます。*本記事は斉藤正身氏の著作『医療・介護に携わる君たちへ』から一部を抜粋、再編集したものです。

「やりがいがない=向いていない」と考えがちだが

医療・介護の世界では「団塊世代全員が後期高齢者となる2025年問題」「利用者の保険料負担の増大」「報酬制度の見直し」「医療療養病床および介護療養病床廃止と介護医療院の創設」などが取り沙汰されていますが、根本的な問題はそこではないことにどれだけの医療・介護従事者が気づいているでしょうか?

 

もちろん、それらの問題や課題も重要なことには違いありませんが、真の問題はその先。これまではとにかく専門職の需要を満たすことが優先されてきたものが、これからは医療・介護の専門職が「選ばれる時代」になるということです。専門職だから仕事ができるのではなく、人間として必要とされるから仕事ができる。その違いに気づけているかどうか。

 

全国各地の若手医療・介護従事者と接する機会も多いなか「今の環境ではやりたいことができない」「やりがいが感じられない」という悩みに接することも多いのですが、実は、そうした悩みや不安は「見ているもの」がズレていることから生じているように思うのです。

 

多くの人が「これが仕事ですよ」と言われると、目の前の仕事だけを見てしまいます。ですが、その仕事の前提はどうなっているのかということにはなかなか意識が向きません。人間は自分が意識していないものは視界に入らないのです。そうなると、目の前の仕事がうまくいかなかったり、やりがいがないと思えてくると、もう自分がすべてつまらない存在のように思えて「向いてないのかな」「ほかに移ったほうが」と近視眼的に考えてしまいがちです。

10年後、15年後の自分をしっかりイメージする

ここで少し視野を広げてみてほしいのですが、みなさんは「今」だけ働くわけではないですよね。20代、30代の医療・介護従事者にとって10年後、15年後がまさに働き盛り。そのときの自分をしっかりイメージしてほしいのです。今は、専門職が人材不足だからいいけれど、この先はそうはいかないよという話です。先ほど仕事の前提と言いましたが、今の仕事の前提は団塊世代のボリュームに合わせて、どんどんサービスをつくっていき、そこに人も必要になるということになっています。

 

ですがその世代がピークを迎えた2025年以降は逆に、そのサービスをどう整理縮小するかということが前提になってくる。そのなかで残るサービス、残れる専門職は限られてきます。能力さえあれば選ばれるかというとそうでもない。その時点でより若い人のほうが人件費が安ければ、そちらを選ぶ経営者もいるでしょう。いくら経験や能力があってもそれだけでは残れないかもしれないわけです。これは医療・介護の世界に限った話ではなく、どんな業種職種の世界でもすでに始まっています。

 

なんだか重い話をするなぁと思うかもしれませんが、今だけを見て悩んだり、不満を感じるのではなく自分に関係のある少し先のことまで見て、そのうえで「今、何をしておけば良いのか」「どんなことを大切にしておくと良いのか」を意識してほしいのです。

「誰かの役に立ちたい」という思いはインフォーマル

この先、みなさんが働き盛りの時代に医療・介護の世界で生き残るのに何が大事か。一言でいえば、「インフォーマル」を大事にするということです。

 

フォーマルの中で働くということは、医療・介護保険などの法律、制度に基づく業務の中だけで働くということです。だからこそ、インフォーマル。つまり法律や制度の枠に収まらず、たとえば「地域にとってかけがえのない存在になるにはどうするか」そうやってフォーマルから抜け出して働くということ。そのためにどうすればいいのかを今のうちから考えて動いていくことです。

 

とはいえ「インフォーマル」がピンとこない人もいるかもしれない。そんな人は、こう考えてみてください。もともと、皆さんはインフォーマルなこと = 純粋に誰かの力になりたいと思って働くことを大事にしてきたはず。決して社会保障の制度の中で働くんだと思ってこの世界に入ったわけではないと思うんです。

 

それなのに、いつの間にかフォーマルな制度の中だけで仕事をこなしてしまっている。それが崩れたらどうなるんだろう? と、自分の原点に戻って問いかけてみてほしい。

「自分を必要とする人」としっかり向き合う働き方を

「上司とうまくいかない」という悩みや不満も同じこと。なぜなら私たちは上司のために仕事をしているわけではないからです。たとえ、付き合うのが難しい上司だったとしても、その人のために仕事をしているわけでもないのに、それを理由に辞めるのはおかしい。本当に大事なのは何かという視点で考えてみてください。私たちは目の前の患者さん・利用者さんのために仕事をしているのですから。

 

インフォーマルを大事にするということは、法律や制度、あるいは医療機関の組織や体制、上司がどうかといったこと以前に自分の専門性を活かせる「日常」をしっかり見据えることができ、「自分を必要としてくれている人」「自分が力になれる人」とちゃんと付き合えていることをいうのです。

もし今「自分の現状に満足できない」としたら?

もしみなさんが今、自分の現状に満足できていないとしたら「なんのために」仕事をするのかが見えにくくなっているからかもしれません。

 

たとえば私であれば、「自分を必要としてくれる人のために」仕事をしています。仕事に対するこの原点がしっかり見えているからこそ、日々の仕事に前向きに取り組むことができています。

 

この原点を確立させてくれたのは父でした。自立心が強く、太平洋戦争時に「国のために」と「予科練(海軍飛行予科練習生)」に志願して入った父は、山口県柳井市にあった柳井潜水学校分校で特殊潜航艇(爆薬を積んで敵艦に突撃する特攻兵器)の訓練中に終戦を迎えました。

 

結果的には命拾いをした父ですが、本人はそうは思えなかったそうです。自分の存在は国のために命を預けたところにあったのですから。そして地元の埼玉県川越に帰ってきてから、せめて亡くなった戦友のためにという想いと、地域のためにとお寺の境内で戦争で働き手を失った人たちのための配給のお手伝いをするようになりました。

 

父の生き方の根底には、自分が世話になった環境で、そこにいる人たちのためにやりがいを持って生きなければというものがあったのでしょう。そのうち「人のためにという仕事をしたいのならもっと勉強して福祉の仕事をしないか」と、川越市役所から誘われ、当時の厚生省がつくった日本社会事業学校(現日本社会事業大学)の夜学で学びながら川越市の福祉事業を立ち上げる仕事をするようになったのです。

自分のためではなく「誰かのために」職務を遂行する

私が小学生のとき、市役所での手腕を買われた父にある病院から声がかかりました。病院経営立て直しのために事務長をやってほしいというのです。そのとき、父には特別養護老人ホームをつくりたいという気持ちがあった。その当時は「アルツハイマー型」認知症などになって症状が重くても、ちゃんとケアを受けることができず精神病院で抑制されるようなこともあったようです。

 

さらには福祉の仕事をするなかで、医療的なことが課題となって福祉が全うできないことへの強い問題意識があったのかもしれません。

 

その後、病院の事務長を経験し経営を立て直した父は、老人ホームをつくる構想をさらに一歩進めて「老人のための病院をつくろう」と決意し、霞ヶ関中央病院(現:霞ヶ関中央クリニック)を開設し、そこから今の私たちの法人は始まりました。

 

ここで大事なのは、父がただ単に病院経営を始めたわけではないということだと私は考えています。その原点には「~のために」という強い想いと信念があった。最初は国のためだったものが、地域のため、そして自分が力になれる人のためと移っていったわけですが、いずれも自分のためではなく誰かのためにという点でつながっているのです。

若い人の「やりたいことが分からない」は当たり前

とはいえ、最初から「~のために」という強い想いと信念が確立されていて、あなた自身の将来像であるなりたいものが見えてなくてもいい。それよりも大事なことは、なぜ自分がこの世界で生きてみたいと感じたのか。その「なぜ」だと思うのです。

 

私も最初から医者を目指してきたわけではなく、できることなら新聞記者だとか文章を書いて何かを伝える仕事がしたかった。そうしたこともあってか学生のときは仕事最優先の父にかなり反発していました。高校を卒業するまでは将来についてあまり父と話し合うこともありませんでした。

 

そんな自分ですからみんなと違っているということも自覚しています。大多数の医者と違って、もともとは文系だった人間が医療・介護の世界で仕事をするのですから考えること、思いつくことも違ってくる。

 

どんな医者になるんだというイメージだってなかなか持てなかった。でも、自分では「時間がかかって医者になった」ということが良かったのかなと思ったりします。ショートカットしていない分、自分で見つけた医者の原点がすごく大事に思えるからです。

 

医学部の学生時代、医療や介護の光が当たらない人たちを目の当たりにして「こういう人たちを助けたい」と強く感じられたのも、最初から「こんな医者になるんだ」という想いを描いていなかったからです。そういう意味で、若い人が「やりたいことが分からない」というのも私はごく当たり前のことじゃないかと思うのです。

仕事を志すきっかけとなった経験を思い出してみる

本当にやりたいことなんて頭の中で考えても出てくるものではない。いろんな出会いの中で生まれてくるものじゃないでしょうか。

 

それが私の場合は、学生時代の夏休みに保健師さんのお手伝いをしながら瀬戸内海の島々を巡る公衆衛生の実習の中にあった。ある島では、いざり歩きをする老婦人の姿に衝撃を受けました。

 

肝硬変で腹水が溜まり、手も曲がっている。普通はそうなる前に医療機関にかかるものですが、その当時、島では家族がそういう姿を他人に知られることを嫌がり、医者にも診せていなかったのです。

 

保健師さんだけは家の中に入ることができ、そこでようやく医師を四国本土から船で呼び寄せ医療を受けることができる。自分の知らないところで大変な仕事があるんだと思いました。何か突き動かされるものがあったという感じでしょうか。

 

そして漠然とではあるものの、今の表現で言えば地域医療や公衆衛生に関わるような仕事ができる医者になりたいと思ったのです。

 

べつに私が何か特別変わった経験をしてきたということではありません。みなさんにも、きっと少なからず「自分にとっての大切な経験」があるはず。少し忘れかけていた人には思い出してほしいし、自分がなぜこの世界で仕事をしているのか分からなくなっている人には、そこをもう一度取り戻してほしいのです。

「原点」を思い返すと、自分本来のあり方が見えてくる

みなさんにも今の世界に足を踏み入れた、自分自身の「原点」になる場所や出来事があると思います。悩んだときは、その「原点」を思い返してみることで自分の本来のあり方が見えてくるのです。

 

大学病院で働いていたころ、父がやっている霞ヶ関中央病院(現・霞ヶ関中央クリニック)の先生が退職されることになり、病院を手伝ってくれと父から頼まれました。これは正直、嫌だった。やっと大学病院で行なわれている先進的な医療にやりがいを感じ、自分が医師としての夢のようなものを描き始めたタイミングでした。

 

しかも、そのころの老人病院というのは「一度入院したら帰れない」と言われていて決して世間のイメージも良くなかった。父の病院は、1970年代から当時は付添婦さんが当たり前の時代に介護職を職員採用する画期的な病院でしたが、やはり「一つ下」に見られる時代だったのです。

父の病院・施設で見つけることができた「やりがい」

大学病院の先端医療の現場にいたこともあり、父の老人病院に入ることにとても抵抗感がありました。けれど、いろんな人から説得もされ、霞ヶ関中央病院での医師生活が始まりました。1988年33歳のときでした。

 

そして霞ヶ関中央病院で急性期医療の医師となり2年後の1990年。今度は霞ヶ関南病院の院長をやれと父から言われました。このときも、それまでの院長が独立・開業されたことがきっかけです。

 

考えてみると、私の人生は自分で道を切り拓いてきたというより、求められてきていることばかり。もちろん不本意なこともありました。でも、そのなかで自分で自分のやりがいを見つけていくのが自分のやり方、生き方であり私の原点なのだとあらためて思うのです。

 

結論を言えば、私自身は父の病院や施設にやりがいを見つけることができたのです。

 

 

本連載は、2017年10月31日刊行の書籍『医療・介護に携わる君たちへ』から抜粋したものです。その後の法改正等、最新の内容には一部対応していない可能性がございますので、あらかじめご了承ください。

医療・介護に携わる君たちへ

医療・介護に携わる君たちへ

斉藤 正身

幻冬舎メディアコンサルティング

悩める医療・介護従事者たちへ、スタッフ900人超を抱える医療・社会福祉法人の理事長が送る「心のモヤモヤ」を吹き飛ばすメッセージ! 日々、頑張っているつもりだけどなぜか満たされない、このままでいいのかと不安になる…

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