アメリカでは小学生が論文を書いている
アメリカの教育と日本の教育は大きく違います。実際に子どもをアメリカの小学校、中学校、高校に入れてみて、その違いには本当に驚きました。
日本では、小学校から高校を通じて、各分野の知識を存分に身につけます。その知識量はおそらく世界一だろうと思います。一方、アメリカは教科書があり、知識を学ぶ分野はあるものの、こうしたハードスキルの部分よりも「論理の構成」の学習に重きを置いています。
小学校高学年になると、自分でひとつのテーマを掘り下げ、レポートを書く「プロジェクト」と呼ばれる学習があります。テーマが決まると図書館などへ行き、参考になる本を探します。その本を先生に見せて、ふさわしいかどうかチェックしてもらい、OKをもらうと作業開始です。論理構成のアドバイスをもらうわけです。
テーマを深めるためには、もちろんインターネットなどの情報も使います。生徒はそれらの情報の要点をカードに1項目ずつ書いていきます。次にカードを関連するグループに分類します。そして、各グループにタイトルをつける。
このタイトルをつけることをヘディングといいます。このヘディングの集まりが、自分のレポートの目次になるのです。このようにカードを整理してレポートの章立てを考えたら、先生からアドバイスをもらいます。
個別の知識(カード作り)を分類(グループ分け)し、抽象化(ヘディング)し、統合(目次の作成)する。この目次作りから自分のレポートの完成までをひとりでこなすのです。つまり、日本の大学生が論文を書くように、アメリカの小学生はレポートを書くのです。これを大学までずっとやり続けるのが、アメリカの教育の大きな特徴です。
アメリカでは「社会に役立つ教育」が施されているが…
実は、この目次作りのやりかたは、私が東京大学で大学院生の指導をしていたときに、同じように学生にやらせていました。目次作りをしっかりやることで、論理がきちんと構成され、よりよい論文になるのだと伝えていました。
レポート作りの途中、またレポートが完成して発表してからも、クラスではそのレポートについて、討論をすることが多いです。クラスメイトから鋭い質問をされたり、論理の甘さを指摘されて批判されたり、非常に厳しい。日本なら、大学生でも社会人になっても、これほど周囲の人たちに自分の論理をコテンパンにされることはないでしょう。
アメリカでは討論すること自体も教育です。大人になって社会に出れば、自分の課題を見つけ、論理的に分析し、結論に向かって努力して結果を出すということは日常ですし、それが仕事の成果に結びつきます。そして、成果を出すまで、そして出してからも、周囲から批判を浴びたり、ダメ出しをされたりします。
アメリカでは子どもの頃から、こうしたまさにストレートに「社会に役立つ教育」が施されているのです。世界に通用するスーパービジネスパーソンが育つのも、理解できます。アメリカでは日本が高校で学ぶ知識を大学で学ぶこともしかし、このようなアメリカの教育にも欠点はあります。
論理構成の教育は、時間がかかります。その分、日本の教育が力を入れている「各分野の知識」の学習に手が回りません。したがって、アメリカ人は高校を卒業する時点での知識は少なく、その分を大学生になってからカバーすることになります。論文も書き、知識を入れるための勉強もするため、アメリカの大学生は非常に勉強に忙しい。日本の大学生のように、バイトや合コンに費やす時間はそうそうありません。
そう考えると、大学に行かず高校を卒業して社会に出る若者は、一般的な知識が乏しいままで、それが貧困やトラブルに結びつきやすいということになります。優秀な子どもにとってはアメリカの学習は適していますが、学習が苦手な子どもをすくい上げることは難しいと思います。
一方、日本では高校生までの教育により、社会に出て必要な知識は身につきます。日本の授業のスタイルは、多くは先生が知識の内容を講義として一方的に話すスタイルですから、効率よくたくさんの知識を学生に授けることができるのです。
ただし、一方通行なので知識を実感に結びつけ、社会で役立てる力は弱いといえます。知識の底上げはできていますが、その知識の活用が乏しいこと、そして論理構成が得意なタイプの子どもは実力発揮の場がなく、落ちこぼれの反対、「吹きこぼれ」になりやすいのです。
さて、もう一度文部科学省が掲げる「国際的な人間」を思い出してみましょう。「国家の枠組みを超えた国際社会の一員として自己を確立し、発信を行い、主体的に行動できる人材」
こうした人間を作る教育としては、現時点では、アメリカの教育のほうが適していると思わざるを得ません。だからこそ、新学習指導要領では、将来の子どもたちの国際的な活躍を見据えた新しい教育を提示しているのです。