多くの大名が疲弊…秀吉の「成果なき」対外政策
次の文章を読みながら、【①】~【⑬】を埋めましょう。答えはページ下部を参照(PCの場合は【 】内部をマウスでドラッグしても参照可能です)。
全国統一を果たした秀吉(ひでよし)は、【①明(みん〔中国〕)】を征服するという大いなる野望を持ちます。そして、朝鮮(ちょうせん)に協力を求めます。協力を求めると言っても、「俺の部下になれ」という強気な態度です。当然、朝鮮側は拒否します。そこで秀吉は【②朝鮮出兵】を行います。
【③1592】年の【④文禄(ぶんろく)】の役(えき)、【⑤1597】年の【⑥慶長(けいちょう)】の役の二度にわたって大軍を送り込みました。【④】では首都の漢城(かんじょう〔=現在のソウル〕)、平壌(ピョンヤン)をも占領しましたが、李舜臣(りしゅんしん)率いる朝鮮水軍に悩まされました。そして、1598年豊臣秀吉が病気で亡くなったことを受けて、兵を引き上げました。
この戦いは朝鮮の人々を傷つけたとともに、豊臣秀吉に仕えた大名(だいみょう)が多くの兵を失い、力を弱めるきっかけとなりました。そして、北条氏(ほうじょうし)の後に関東を支配し、朝鮮出兵に参加しなかった徳川家康(とくがわいえやす)が力を持つことになります。
<①~⑥の解答> ※PCの場合、上記【 】の中をマウスでドラッグ。
①明(みん)
②朝鮮出兵
③1592(年)
④文禄(ぶんろく)
⑤1597(年)
⑥慶長(けいちょう)
「超ど田舎」に左遷された結果、朝鮮出兵を免れた家康
なぜ、家康は朝鮮出兵に加わらなかったのでしょうか。これには過去のいきさつが関係しています。まず1590年を思い出してください。ここで北条氏を滅ぼして、秀吉は天下統一を果たします。すると、秀吉は家康にこう言ったんですね。
「これから家康殿には、北条氏が治めていた関東地方に行ってがんばってもらいたい」
家康はこれまで、現在の静岡県を中心に5ヵ国を治めていました。それを関東に引っ越ししろというのです。しかも、まだ北条氏に仕えていた部下が隠れていて、戦いをしかけてくるかもしれません。
「イヤです。だいたい、江戸(えど)の町は荒れているそうじゃないですか。引っ越しなんかしませんよ」と、きっと言いたかったことでしょう。でも、ここで秀吉に逆らったらどうなるでしょう? こいつは命令を聞かなかったということで、滅ぼされてしまうかもしれません。
秀吉としても、これ以上家康が強くならないように、関東地方に追いやりたかったのです。そういう秀吉の狙いがわかっていた家康は、イヤな顔ひとつせず、「わかりました。関東でがんばります」と答えました。
家康は江戸の町に着いたとき、とても驚いたことでしょう。なんてったって、超ど田舎だったのです。「なんて土地だ…」とがっかりしたはずですが、そこはさすが家康。よし、じゃあ江戸を立派な町にしようじゃないかと意気込みます。
そして、1592年の朝鮮出兵。秀吉は家康にも兵を出すように言います。しかし、家康は次のように答えます。
「秀吉様のご命令通り、今関東でがんばっています。これからもがんばります!」
そう言われてしまうと、秀吉も強く言えませんね。自分が命令したことなのですから…。朝鮮出兵に参加しなかった家康は、力を蓄えていきました。
家康は厳しい人生をうまく乗り越えて、最後には天下を統一した…と言われていますが、本当のところはどうなんでしょうね。ひょっとすると、実際の江戸はそこまでひどくもなかったのに、家康が「大変だ! 大変だ!」と言うことで朝鮮出兵を逃れたのかもしれませんし、家康の時代になってから、開発を進めたすごい人と思わせるためにストーリーをつくったのかもしれません。
さて、朝鮮出兵の際、朝鮮から多くの陶工(陶磁器〔とうじき〕職人)が日本に連れて来られました。そして、大名たちが自分の領土で焼き物をつくらせたのです。これが、有田焼(ありたやき)や唐津焼(からつやき)、薩摩焼(さつまやき)や萩焼(はぎやき)のもとになっていると言われています。そのことから、秀吉の朝鮮出兵は「【⑦焼き物戦争】」と呼ばれることがあります。
<⑦の解答> ※PCの場合、上記【 】の中をマウスでドラッグ。
焼き物戦争