ウイスキー市場を低迷させた「オールドショック」
1983(昭和58)年、国内のウイスキー類の消費量が約38万klに達しました。その後、バブル景気に乗ってウイスキーはさらなる躍進を見せるかと思いきや、市場は低迷します。その一つの象徴的な出来事が「オールドショック」です。
1950(昭和25)年の登場以来、戦後のウイスキーブームを牽引したのは間違いなくサントリーオールドでした。特に1970年代の販売量の伸びはすさまじく、1974(昭和49)年に5万ケースだった販売量は4年後の1978(昭和53)年には1000万ケースの大台に乗り、1980(昭和55)年には1240万ケースという、世界記録を達成しました。
ところが、1980年を境に販売量は減少に転じます。理由は三つあります。
一つは小売価格の値上がりです。相次ぐ増税によって、1978年には2350円だったオールドの価格は1984(昭和59)年には3170円になり、値ごろ感が失われてしまいました。
二つめは味の低下です。サントリーが1973(昭和48)年に新設した白州西蒸溜所の原酒は酒質が軽すぎました。その西蒸溜所の原酒をオールドに使ったことで、一時的にオールドの味が落ち、消費者離れが進んだのです。
三つめは焼酎・チューハイブームです。当時、焼酎の酒税は低く抑えられており、ウイスキーに比べてお手ごろ感がありました。加えて、すっきりとして飲みやすい新製品が次々に発売され、焼酎をソーダで割ったチューハイも登場。焼酎やチューハイを好む消費者が増え、ウイスキー離れが加速したのです。
主力商品であり、屋台骨ともいえるオールドの転落に、サントリーもただ手をこまねいていたわけではありません。広告やキャンペーンなどで起死回生をはかりますが、期待したほどの効果は得られませんでした。結局、売り上げは急下降し、そのあまりの凋落(ちょうらく)ぶりに「オールドショック」という不名誉な言葉が生まれたほどです。オールドの販売量は、2000(平成12)年には最盛期の10分の1以下にまで落ち込みます。
そして、まるでオールドに引きずられたかのように、ウイスキー市場の規模も1983年をピークに縮小していきました。
「隠れた銘酒」ともてはやされた地ウイスキーだが…
消費量の低下にシングルモルトの登場、スコットランドの蒸留所の買収、オールドショック、級別制度の廃止……。1980年代のウイスキー業界は話題に事欠きませんでした。実はこの時期、日本のウイスキー業界ではもう一つ、大きなムーブメントが起きていました。地ウイスキーブームです。
地ウイスキーとは、地方の小規模なメーカーがつくるウイスキーを意味します。この時期に地ウイスキーブームが起きた背景には、まず、ウイスキー文化の成熟があります。サントリー、ニッカウヰスキー、三楽オーシャン、キリンシーグラムの大手4社がさまざまなウイスキー製品を送り出し、また広告展開を行なったことで、ウイスキーは人々の暮らしに深く浸透しました。
加えて、1970(昭和45)年からスタートした国鉄の「ディスカバー・ジャパン」、1978(昭和53)年からはじまった「いい日旅立ち」等のキャンペーンにより国内旅行が流行。地方の文化や食にスポットが当たるようになりました。これに商機を見出し、地方の酒類メーカーが次々にウイスキー製造に乗り出したのです。
地ウイスキーのつくり手は、ウイスキーの製造免許を持ちながら、清酒や焼酎、酒精などほかの酒類の製造をメインとしていた酒類メーカーでした。戦前から戦後にかけての一時期はウイスキーの製造免許の取得が容易で、「とりあえず取得しておくか」と免許を得ていたメーカーが多かったようです。免許も、酒づくりのノウハウもある酒類メーカーにとって、ウイスキー業界への参入は容易だったのでしょう。
とはいえ、原酒の混和率が高い特級ウイスキーや1級ウイスキーは、製造にコストがかかります。したがって、地ウイスキーメーカーは主に2級ウイスキーをつくっていました。また、熟成年数が短い製品や、輸入したモルト原酒にグレーン原酒や醸造アルコールを混和したものも少なくありませんでした。当時の地ウイスキーは、「隠れた銘酒」ともてはやされつつも、味わいという点では上質とはいえないものも多かったようです。