客観的な裏付けが難しい「ムチ打ち症」という後遺障害の問題を見ていきます。*本記事は谷清司弁護士の著作『ブラック・トライアングル[改訂版] 温存された大手損保、闇の構造』から一部を抜粋、再編集したものです。

事故の増加で症例が知られるようになったが・・・

交通事故の後遺障害におけるムチ打ち症の等級認定の難しさには、神経症状であるムチ打ち症自体が持つ難しさ、問題がある。この症例が公になったのは意外なことに自動車事故ではなく、第一次大戦後であった。戦艦のカタパルトから飛行機が発進する際、大きな加速度がパイロットにかかり、それによって頸部に損傷を負う事例が頻発したのである。米国のH.E.Croweがこの症例を総じて”Whiplash injury of the neck”と呼んだのが最初で、日本では昭和32年(1957年)に東北大学の飯野三郎教授によって「むちはたき損傷」として紹介された。

 

この症例が我が国で一般に知られるようになったのは昭和30年代後半から40年代の前半にかけてであった。当時自動車の保有台数が飛躍的に増加し、それにしたがって自動車事故も急増した。そこで追突事故による頸部の神経症例がにわかに注目を浴び、医学界ばかりでなくマスコミによって大きな社会問題として扱われるようになったのである。外傷などはほとんど見られない状況でも、事故後しばらくして痛みやしびれなどが襲ってくる。

 

重篤な症例をことさらにマスコミが煽って、難病、不治の病などと誇張された情報が流布された。そのように社会問題化したムチ打ち症だが、それではムチ打ち症とはどういう傷害であるか、どのような仕組みで起こっているか、有効な治療法は何なのかは、はっきりと特定されておらず、それがまた社会的な不安を呼び起こすことにつながったのである。

医学的に統一された診断名はいまだ存在しない

ムチ打ち症が世の中に認知されてすでに50年以上が経っているが、その定義と治療法、いずれに関しても決定的なものは存在しない。そもそもムチ打ち症という言葉自体が診断名として医学的に認められているわけではない。それは事故などの衝撃によって頸部などがムチのようにしなることで起こる様々な症状ということであり、臨床的な診断名ではなく受傷機転(傷害を受けたきっかけ)を示す用語に過ぎないというのが現在の医学的な認識となっている。

 

ムチ打ち症は臨床的な診断名ではない? (画像はイメージです/PIXTA)
ムチ打ち症は臨床的な診断名ではない?
(画像はイメージです/PIXTA)

 

そこでムチ打ち症とは「骨折や脱臼のない頸部脊柱の軟部支持組織(じん帯・椎間板・関節包・頸部筋群の筋、筋膜)の損傷」と説明されるのが一般的であり、幅広い定義となっているのである。

 

ただし、この定義にも問題があって、実際に軟部組織が損傷しているかどうかもわからないことが多い。レントゲンやCTはもちろんMRIなどによってもなかなか異常が映り込まない。結局臨床的には病態が明らかになっていないというのが実情で、「頸部が振られたことによって生じた頭頸部の衝撃によって、X線上外傷性の伴わない頭頸部症状を引き起こしているもの」とされ、つまりは交通事故後、骨折や脱臼を伴わないが頭頸部症状を訴えているものは、総じてムチ打ち症として扱われているのが実態である。

 

そのため「ムチ打ち損傷」「ムチ打ち関連障害」「ムチ打ち症候群」「外傷性頸部症候群」「外傷性頭頸部症候群」「頚椎捻挫」「頸部損傷」など様々な診断名がつけられ、医学的に統一された確固とした診断名はいまだに存在していないのである。

定義があいまいで、病態・症状も様々なムチ打ち症

このような状況であるから、当然後遺障害の等級認定においても困難がつきまとう。ムチ打ち症が先ほど見たように軟部組織の損傷であるとすれば、やはり12級の器質的損傷や画像所見といった要件を満たすことは難しい。そればかりか被害者の訴える症状が事故によってもたらされたものかどうかの医学的な説明も困難な場合が多く、14級の認定さえ危ういのである。

 

問題はかように定義があいまいで、その病態も症状も様々であるムチ打ち症には、軽度のものもあれば、日常生活にかなりの支障をきたす重度のものまで幅広い症状が存在することである。確かに多くのムチ打ち症とされる傷害は3カ月以内で治癒することが多いのだが、難治性のものも存在するのである。それらをひとまとめにして、器質的損傷や画像所見が見られないという一点で判断し、後遺障害14級あるいは非該当にしてしまうのは、あまりに問題が多いといわざるを得ない。

 

さらに客観的な裏付けが難しいムチ打ち症ゆえに、被害者の精神的な影響に過ぎないという一方的な判断や、さらにいえば詐病の疑いにさらされる傾向があることも忘れてはならない。被害者がどれだけ痛みや不自由を訴えても、気のせいだとか治療費や後遺障害の補償目当てで嘘をついているのではないかということで、医師や保険会社から一方的に疑われてしまう。

 

これは後遺障害の認定だけでなく、症状固定にも大きく関わる問題で、不条理な嫌疑をかけられ精神的に不安定になってしまう被害者も少なくない。

現在の交通事故補償に影響を与えている「見解」とは?

ムチ打ち症が社会問題になった時は、マスコミの大々的な報道もあって必要以上に難治性がおそれられていたが、むしろ現在は逆にムチ打ち症に対するイメージは深刻なものではなく、比較的簡単に治るもの、それほどの難病ではないという意識の方が強いようである。それは多分に精神的なものの影響だとする見解や詐病的なものへの疑いも背景にあるようだが、このような認識のきっかけになり社会的にも医学的にも多分にその後のムチ打ち症に対する見方の転機になったと考えられるのが昭和43年(1968年)の土屋弘吉らによる発表である。

 

当時いたずらにその症状の深刻性と難治性を取り上げ社会不安が高まっている状況を受けて、その混乱に終止符を打つべくムチ打ち症に対して一つの見解を発表したのである。この内容が実に現在のムチ打ち症に対する医師や保険会社、裁判所などの見方や考え方の本質を表しており、典型的なものであると考えられるので、少し長くなるが以下に引用することにする。

 

「鞭打ち損傷という用語が本症の病理組織学的、また臨床所見と何等関係のない単に発生機転を示すにすぎない用語であり、近来、医師でないものの間にむしろ誤った用いられ方をして、社会的にも患者の側にも種々の誤解を起こしつつある事実に鑑み、当教室ではすでにこの用語を廃して、単に『頸椎捻挫』の病名を付することにしている」、「患者の本症に対する先入観を除き、本症が3カ月以内に80%以上は治癒するほどの治りやすいものであることを患者によく理解させ、患者を甘やかせることなく、絶えず積極的に心理的に誘導することを努め、神経症の発生を極力防止するよう努めたならば、本症の予後を良好にすることはさして難しい問題ではないと考える」※1

 

※1 土屋弘吉、土屋恒篤、田口怜:いわゆる鞭打ち損傷の症状臨整外278-287、1968

 

ムチ打ち症が単に発生機転を示すに過ぎず、頸椎捻挫という病名を付すのはまだいいとしても、問題は後段である。「患者を甘やかせることなく、絶えず積極的に心理的に誘導することを努め」ればムチ打ち症を治すのは難しくないというのである。医師にしては何とも乱暴な決め付けだと感じるのは私だけであろうか?

 

逆にいえば患者を甘やかし、医師が必要以上に深刻に扱うから、患者がその気になって精神的にも落ち込み、症状がよりひどくなるといわんばかりである。つまりはムチ打ち症の多くは気の持ちようであり、それに周囲がいたずらに振り回されてはいけないということのようだが、この土屋弘吉らによるムチ打ち症に対する見解がその後の日本の医学界、保険業界、法曹界までに及んで、現在の交通事故補償制度における様々な壁となっていると考えるのである。

年間約130万件の調査を行う「損害保険料率算出機構」

確かにムチ打ち症と呼ばれるものの多くは数カ月の治療で改善することも事実である。そしてなかには精神的な抑うつ状態から、症状がさらに重く長引く場合もあるかもしれない。ただし、だからといってそのような被害者を詐病の疑いがあるとか、あるいは症状改善へ向けての積極的な姿勢が見られないなどといって、あたかも被害者側に非があるように断じることは避けるべきだと考える。

 

被害者にとってみれば交通事故は突然の予期しないトラブルであり、災い以外の何物でもない。事故によるショックはもちろんだが、事故後の様々な状況や環境の変化、手続きややり取りの煩雑さ、そして何より身体的なダメージとそこから来る不安やおそれ・・・。

 

とにかく日常では想像しえなかった様々なストレスを一気に受けるわけである。平常な精神状態を保てという方が無理がある。交通事故に関する医療も補償体制も、かかる交通事故被害者の特性を十分に考慮したうえで適切な対応をとることが望まれるのである。

 

さて、そのような観点から再び後遺障害認定の現場を振り返ってみよう。損害保険料率算出機構では年間で約130万件以上(平成25年度)もの等級認定に関する調査を行っている。これだけの数の依頼を処理しなければならないため、一つの事案にかけられる時間も労力も自ずと限界があるだろう。

「頑な」な等級認定が被害者にさらなる実害を…

同機構のモットーに「公平、迅速、親切」というものがある。とりあえず彼らが「親切」であるかどうかは本書を読み進めれば自ずと判断していただけるだろう。他の2つ、公平、迅速は交通事故補償の性質上最も望まれるところである。14級と12級の認定に関しても彼らはこの公平、迅速の原則を振りかざす。ムチ打ち症のような定義も病態もあいまいなものであればこそ、器質的損傷と画像所見があり、事故との関連性が医学的に証明できるものを12級、そうでないものは14級と機械的に振り分ける。

 

確かにある意味公平性を期すのであれば一切例外を認めず、要件を満たさないものはすべて14級、あるいは等級外にしてしまう方が手っ取り早い。しかし再三指摘するとおり、なかには日常生活に大きな影響が出るような難治性のものも少なくないのである。前回の記事で取り上げた土屋弘吉らの見解ですら、3カ月以内で治癒するのは80%以上としていて、100%と言いきってはいない。

 

原理原則だけに則った頑なな等級認定は、交通事故で様々な苦痛を受けている被害者にとってあまりに血の通わない冷たい対応であるばかりか、得られるべき補償を得られないという実害をもたらす可能性が高いといえるだろう。

 

 

谷 清司

弁護士法人サリュ 前代表/弁護士

 

本連載は、2015年12月22日刊行の書籍『ブラック・トライアングル[改訂版] 温存された大手損保、闇の構造』から抜粋したものです。その後の税制改正等、最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

ブラック・トライアングル[改訂版] 温存された大手損保、闇の構造

ブラック・トライアングル[改訂版] 温存された大手損保、闇の構造

谷 清司

幻冬舎メディアコンサルティング

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