1560年(永禄3年)6月、45,000人もの大群を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、織田信長がわずか2,000人の少数の軍勢で立ち向かい、勝利を収めたといわれる「桶狭間の戦い」。信長天下統一の第一歩となったといわれる、日本史上まれにみる戦いです。西野塾主宰・西野鉄郎氏の書籍『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』(幻冬舎MC)によると、信長には勝利のためのこだわりがあったといいます。それは一体なんなのでしょうか。

 

私が得た結論は「信長は勝利の予感のなかで勝利している」ということです。つまり「勝利の予感」が持てなければ、まだ圧倒的な努力・圧倒的に周到な準備をしていないということなのです。

信長は、どうやってフロイスの本音を引き出したのか

信長は人の話を聞くときには、己を初期化して、聞きました。己を初期化してまで話を聞きたいと思わない輩とは、信長は口を利こうともしませんでした。信長はいいとこ取りをしようとはしなかったのです。いいとこ取りとはつまみ喰いです。信長はつまみ喰いはしませんし、許しません。

 

信長はフロイスの話を、自分を初期化して聞きました。信長は訊き上手でもあり、聞き上手でもあったのです。初期化の対義語はバージョンアップです。信長はバージョンアップを許しません。

 

フロイスの本音を聞き出せたのも、信長が自分を初期化して、フロイスの話を聞いたからです。そして、キリスト教(当時)の凄まじい「人間観」を知ったのです。つまり、白人のみが人間であり、キリスト教徒のみが人間であり、しかし、有色人種は人間ではなく奴隷であり、異教徒は悪魔ゆえに殲滅せよ……。

 

信長はそんな彼らへの対抗策を講じました。日本を封建制から資本主義国家へ誘い、「富国強兵」・「殖産興業」の旗を立てました。それが「天下布武」・「永楽通宝」の旗印で、ここは信長の圧巻なところです。

 

また、信長は秀吉や勝家・利家の長所を伸ばすことだけを重んじていたわけではありません。人生で勝つには、あるいはビジネスで勝つには、自分の武器を磨くことも必要ですが、同時に、欠点にも目を瞑るわけにはいかないのです。なぜなら、99%の長所を1%の短所がすべて破壊してしまうからです。

 

ところで、かつてとんでもなく強いボクサーがいました。マイク・タイソンです。まるで野獣でしたが、攻撃されたら弱かったのです。それで、あっけなく消え去りました。すべてはトレードオフです。タイソンが攻撃が強かったのは、防御が弱かったからです。攻撃と防御はトレードオフなのです。ですから、攻撃が強いといったところで、あるいは防御が強いといったところで、それはたいした価値でもないのです。

 

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    西野 鉄郎

    幻冬舎メディアコンサルティング

    九谷五彩による華麗な絵付けと独特の様式美で知られる磁器「古九谷」。 武家文化・キリシタン文化そして朝廷尊皇文化が育まれた加賀・金沢において古九谷誕生の背景にあったものを追究する歴史ロマン。

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