「子どもになんでもやってあげる」毒親
◆コントロールする母
毒になってしまう親のパターンとして、「子どもになんでもやってあげる親」が挙げられます。いわゆる過保護です。
「子どもはこれをよく知らないから」「子どもにはうまくできないだろうから」「心配だから」と、先回りしてやってしまう。どこへ行くにも送り迎えをしたり、子どもに何かが不足していると思うと、子どもが欲しいと言う前に買ってきてすべて揃えてしまったり。一見、やさしくて情の深い親のように見えるのですが、これが曲者です。
母親の愛が濃すぎるが故に、娘に逸脱した行動をとってほしくなくて、あれこれと注文をつけたり、こうしてはいけません、ああしてはいけませんと口うるさくコントロールしてしまう。逸脱した行動をとらせないように先回りして手助けし、これが子にとってはとても息苦しくなってしまうというケースがあります。
母親に対して言い返せずにいた娘がある日突然暴力的な行動に出てしまったり、言い返せないまま身体症状に出てしまったりする人もいるのではないでしょうか。大学の後輩が話してくれた経験が興味深いので紹介します。
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自分は中学時代、祖父母の家で暮らしていましたが、祖母がわりとそういうタイプでした。なんでも先回りしてやってしまい「常に先のことを考えているからね、私は」と、自分のほうがうまくできるということを自慢げに口にする人でした。
いうほど先回りできているわけでもないし、すべての想定内の出来事に対して常に準備をしておくことはコスパが悪く、新しいことがやりにくいのですが、スルーする以外にありませんでした。反論しても理解されないから意味がないし面倒くさい。
でも、この自慢と一緒に「あんたは気がきかない」「家事に向いていない」とさんざん言われました。ただ、それさえうまくかわしていれば、それ以上いじめられるわけでも攻撃されるわけでもない。だからとりあえず「感謝しています」と応えていました。
この祖母は、私が東大に合格したときはたいそう喜んで近所中に言いふらしていました。母はそういうことを外に言うことをよしとしない人。自慢するのはみっともないという考えでしたので、正反対の反応でした。この嫁姑の対立も子の立場からすると実に面倒で疲れました。
ところでこうした祖母と母の反応は表裏(おもてうら)じゃないでしょうか。私のアチーブメントに対するわだかまり、意識の大きさという意味では一緒だと思います。祖母も母ももっとフラットに接してくれたらいいのにと思っていました。
もちろん、自分が能力が高いからとか、人並み以上に頑張ったから難関校に入学できたのだ、ただそれだけのことで、祖父母も父母も関係ない、などとおこがましいことは考えていません。祖父母にも両親にも感謝の気持ちというのは持っています。
でも、私と両親、祖父母は別人格。私の合格をたいそうなことのように自慢されたり、本当は見せびらかしたいのに必要以上に謙遜されたりすると、どちらにしても過剰な反応に思えてしまって、私はどうしたらいいのかわからなくなり、気まずい思いをします。
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彼女の場合は、心までコントロールされずに冷静に応じられるだけの余裕があったのがよかったのですが、ことによっては、自立することを妨げられ、自分の判断を否定されつづけて、見捨てられ不安を常に感じつづけることになってしまったかもしれません。
「自分の子ども、一人だけかわいがれないんです」
◆愛情が深すぎる
私はときどきラジオ番組に出演させていただくことがあります。そのときに『脳科学で答える人生相談』というコーナーがあって、リスナーの方が送ってくださったメールの相談に答えます。
中には「モテるにはどうすればいいですか」というような、ほほえましい質問もあるのですが、一つ、印象に残っている質問があります。
相談者は子育て中のお母さん。子どもが何人かいて、その中で一人の男の子だけ、かわいがれないというのです。かわいがりたい気持ちはすごくあるのだけど、どうしてもつらく当たってしまう。これは虐待なのでしょうか。どうすればいいのでしょうか、という質問でした。
私は「人間には、近すぎるあまりに思いどおりにならないと、つい攻撃をしたくなるというしくみがあります」という話を、ラジオのコーナーの短い時間でどうにかこうにか説明をしました。
ある時その番組中に「なるほど、そういうことだったのですね」と、その相談者の方からお返事のメールを頂くことができました。愛情が深すぎてそうなったのですね、という趣旨の解説になったのですが、すごく腹に落ちたようでした。
お便りを下さった方はその男の子に対して愛情が足りないのではなく、愛情が深すぎるということではないか、と分析をしました。なので、一つの解決法として、祖父母なり夫なり、いろいろな人を入れて薄めてあげるとちょうどいい。すこし遠くから、他人様の子だと思って接するとラクになるかもしれません、と。
子育て中の母親の中には、子どもの中に自分と似た面が認識されると嫌悪感が湧くと言う方もいます。自分と似た人と、ある一定の距離があれば、逆に親近感が湧くのに、距離の近い人だと苛ついたり、腹が立ったり、ネガティブな感情が湧いてくる。
「Familiarity」(よく知っていること、類似性)という用語がありますが、この尺度が高いときに、却って非常にネガティブな感情が生まれることがあるのです。類似性が高いのが娘の場合だと「自分と似ているくせに、一人だけ幸せになるなんて許せない」という憎悪の感情が湧いてくることもあります。
類似性と、もう一つの重要なファクターがあります。その要素は、獲得可能性です。「私だってあれぐらいの男と結婚できたわ」「私だって時代が違えばあの学校に行けたのに」「あんたは今の時代に生まれてよかったわね」と、娘に対しての感情が生まれます。性別が違うとこの感情は少し薄れるので、母ならば息子よりも娘に、父ならば娘よりも息子に対して抱きがちな感情です。
両親が精一杯、全身全霊で愛情を注いでいるつもりでも、子どもの「安心していたい」という心を無視してしまうことがあります。わかりやすく手をあげたりするのでなくても、子どもが親に受け入れてもらえない悲しみに打ちひしがれてしまうこともあります。
子どもの心と自分の心の両者に、親である人はゆっくり、ちゃんと向き合って、接していけるだけの余裕が本当は必要です。親だってもちろん疲れています、子どもをなんとか育てていこうと必死でない人は少ないはずです。
でも、なぜか望ましい結果に結びつかないという場面が少なくないのです。子どもだって、親の気持ちが全部わからないわけではないでしょう。だから大人になって、冷静に客観的に見られるようになっても苦しいのです。
大人同士でもそうで、一方通行の愛、欲望を人に投げ続けるとよくない結果になることが多いのです。投げることが悪いのではなく、長年、一方的に投げ続けることがどうも好ましくない結果を招く。
愛情は、どうしたら、正しく伝わるのでしょうか。一方通行の思いを相手にぶつけ続けて、倒れるまで訴えれば良いのでしょうか。でも、そんなことをしたら子どもは逃げたくなってしまう、向き合いたいはずなのに親とキャッチボールすらできない。
もう一度言いますが、両親が子どもを愛していて、必死に育てようとしていることくらい、子は痛いほどわかっています。というか、子はそうであってほしいと願う生きものです。ただ、子どもは親の言うことも聞かないものですし、なまいきだし、できないことも多くて、親を困らせるでしょう。けれど、親の気持ちは感じとっています。
もちろん、もし子どもをひどく傷つけてしまったとしたなら、その行為、やったこと自体は変わらない。子どもの側からしたら、それらをなかったことにするというわけにはいきません。できるとすれば、あった事実に対する解釈を変えることくらいでしょう。
子側が為し得る解釈としては「そのとき親も大変な状況にあったのだろう」「周囲と人間関係がうまくいっていなかったのかもしれない」「あのときは病気だったのだ」「人格的にそもそも問題を抱えていた、かわいそうな人だったかもしれない」などでしょう
また、「自分がいけない子(だめな子)だから、こんなことをされてしまうのかもしれない」とも思うでしょう。けれど、もしも本当に親がかわいそうな人だったからといって、ほかの人(この場合は子)に危害を加えていいということにはなりません。それを分けて考えられるような大人になるまでに、人間はかなりの年数を要します。
なかには考えられるようにならない人もいます。愛情が愛情として伝わらず、形を変えて相手を傷つけることがある。この問題を解消するにはどうすればいいのだろうと、私はかなり長い間、考えました。これについては、本連載で詳しく論じていきます。
中野 信子
脳科学者