「外に出たい」すら許されなかったキェルケゴール
◆父の子殺し──アブラハムのパラドックス
父は無意識に息子を殺したいと望んでいる──。なんという恐ろしいことを言うのだ、と怒りたくなる人もいるかもしれません。この考えを提唱したのはデンマークの哲学者、キェルケゴールです。
旧約聖書には、父アブラハムが主の声を聞いて息子イサクを殺そうとする場面が出てきます。キェルケゴールは、著書『Fear and Trembling』で、実際にはアブラハム自身に元来、イサクに対する殺意があったのではないかと分析しています。父親の持つ、この葛藤を「アブラハムコンプレックス」と呼びます。
息子を殺そうとする父の姿に、なぜ彼はここまでこだわったのでしょうか。
キェルケゴールは、現代なら「毒親育ち」ではなかったかと思える節があります。家庭内には、娯楽といえるものがほとんどなく、父は厳格で、キェルケゴールが外に出たいと言うと、それを許さず、父親は彼の手をとって部屋のなかを散歩したといいます。キェルケゴールは行きたいと思うところを父に伝え、すると父子は想像のなかで、門を出、海岸に出たり、町を歩いたりするのです。
手をとって部屋のなかを歩きながら、父は町や海岸で見るもの聞くものを、実際に見たり聞いたりしているように物語り、知合いに出合って挨拶をし、車が音をたてて通り過ぎるさまを描写します。父はあらゆるものを詳しくいきいきと、想像力を駆使して語りました。この「部屋のなかの散歩」は、キェルケゴールに想像の楽しさを教え、たくましい想像力を養うのに有益だったと一般的には言われています。
しかし、実際はどうでしょう? 部屋に閉じこめられたまま、父の世界を抜けだすことが許されないキェルケゴール。彼の中には抗うことを許されない父の存在への複雑な感情があったのではないか……。だからこそ、彼は旧約聖書の燔祭(はんさい:息子イサクを神に捧げる)に強い思い入れを感じ、わざわざ分析しようと試みたのではないか、と考えられます。
子はある程度成長すると親から精神的に自立しようとします。これは子に対して愛情を抱いている親にとっては本来は苦痛なことです。しかしこのとき、子を精神的に自分から分離させることで、親の精神は窮地を脱することができます。つまり、子を突き放すことで、自分がラクになる──これが「息子殺し」としてキェルケゴールが分析した心理です(一方、母親と娘の潜在的な対抗的心理は白雪姫コンプレックスと言われます)。
「父としてどう振る舞ってよいのかわからない」
◆父子関係のモデルが消失した時代
家庭内における父親の存在に目を向けてみましょう。現在40代の中盤にさしかかろうという私の世代が育った多くの家庭は、かつては母親が専業主婦で父親が外で働くというのが一般的でした。そうなると、母子間のコミュニケーションが非常に密であるのに対して、父親との関係は非常に薄くなります。関係どころか、影も薄い、というご家庭も少なくなかったかもしれません。
ところで、私の世代以外の人はどうなのか、見渡してみると必ずしも父との関係が薄い人ばかりとは言えません。むしろ友だちのようであったり、親というよりは教育者のようであったりと、様々です。一方で、離婚する人も増えました。すると、この多様な家族のありかたの中での父の立ち位置というのは、どうなっているのでしょうか。
自由度が高い分だけ、かえって心的負担の大きいものになっていると見ることもできます。
仕事の場であればペルソナを定まった形で与えてもらえますから、それに沿って行動すればよいのですが、家にあっては父としてどう振る舞ってよいのかわからない。人によっては家に帰ることが億劫で、外で時間をつぶして帰るというケースもしばしば耳にします。
もっとも、妻との関係がギクシャクしていることがその原因の大きな部分ではあるのでしょうが、ともあれ、父親としてどうあるべきかの理想像が消失した現在、男性が家庭において感じるストレスは、女性のそれとはまた別の重さがあるのではないでしょうか。裁量権が大きいほど、その判断をしたことの責任も大きくなるからです。
中野 信子
脳科学者