「教養がある」「教養がない」とはどういうことか
そもそも「教養」とは何でしょうか。
実は、教養という言葉に決まった定義はありません。辞書や事典に書かれた解説もどこかあいまいで、微妙に意味合いが違っていますし、人によって解釈が異なります。
文部科学省の資料(『新しい時代における教養教育の在り方について〈答申〉』2002年)には、次のようにまとめられていました。
「教養とは、個人が社会とかかわり、経験を積み、体系的な知識や知恵を獲得する過程で身に付ける、ものの見方、考え方、価値観の総体ということができる。(中略)知的な側面のみならず、規範意識と倫理性、感性と美意識、主体的に行動する力、バランス感覚、体力や精神力などを含めた総体的な概念としてとらえるべきものである」
これもまた、漠然としています。ただ、教養が単なる知識や知恵ではなく、そこから得られるさまざまな能力や人間性であると捉えられることが分かります。
私自身は、「教養=思いやり」と考えています。思いやりとは、「他人の気持ちになって考え、気遣うこと」です。
人の心に形はありません。その目に見えない相手の心を察して行動するには、想像力や思考力、表現力、行動力など、さまざまな力が必要です。ですから経験や学習によって、すばらしい能力や人間力を身に付けた「教養がある人」ほど、思いやりのある行動ができる──というのが私の考えです。反対に、いくら知識や技術があっても、教養がない人は自己中心的で利己的な言動になるでしょう。
あるとき、私の知る「叩き上げ」の有名企業の社長が、やはりある有名な企業のエリート社長から「お前は教養がない」と言われたそうです。そう言われた社長は、SNS上で、「皆さん、教養って何だと思いますか?」と疑問を投げかけていました。それに対して私は、「自分が発した言葉で相手がどのくらい傷つくか、まわりの空気を乱すかということすら気づかないその人こそ、教養がない」と思った次第です。
実は、教養を思いやりやそれに近いものだと捉えている人は、このほかにも多くいます。例えば、こんな方たちです。
・數土文夫(前東京電力会長)
「教養とは何かと問われれば、私の答えは『教養とは仁である』。言い換えれば、人に対する思いやり。男性や女性、外国人、異業種の人など、自分と違う相手に対応する能力のことです。相手に対する敬意や思いやりこそが仁であり、教養だと考えています」(『文藝春秋』2017年4月号より)
・養老孟司(解剖学者)
「教養はものを識ることとは関係がない。やっぱり人の心がわかる心というしかないのである」(『まともな人』(中央公論新社)より)
・チェーホフ(ロシアの作家)
「教養ある人間は、他の人格を尊重し、したがってつねに寛大で柔和で腰が低いものである」
私がずっと思っていた教養の意味するところについて、このようなすばらしい方々も同じ考えを述べていた──それを知り、私はテストで100点をとった気分になりました。ここで述べられている通り、教養のある人は、国や性別、職業、宗教に関係なく、相手の考えや気持ちを尊重し、上手に関わりを持つことができると思います。思いやりは、別の言い方をすれば「すべての人に対応できる力」と言えるのではないでしょうか。
日本人に「芸術の教養」がない根本的な原因は
絵画や彫刻、音楽、バレエなどの舞台芸術……芸術に触れると、想像力や表現力、他人を認める力(多様性を受け入れる力)など、さまざまな力が身に付きます。これらはすべて思いやりにつながります。芸術の教養は、美的センスや豊かな心を育むだけでなく、グローバル・コミュニケーションのスキルを高めてくれるのです。
この効果には、企業も注目しています。社員研修として美術鑑賞を取り入れる企業もあるのです。その研修とは、美術作品を見た感想や意見をグループで話し合うというもの。想像力や思考力のほか、自分の意見を言葉にする力や、人の意見を聴く力といったコミュニケーション能力を高めることを目的にしています。
ところで皆さんは、「芸術」に対してどんなイメージをお持ちでしょうか。きっと「難しくて、よく分からない」「堅苦しい」「敷居が高い」という印象を持っている人も多いのではないでしょうか。美術鑑賞やクラシック音楽鑑賞が、よく「高尚な趣味」と言われるのは、そういった人の心理を表しているのではないかと思います。
多くの日本人にとって、芸術はどこか縁遠いものなのです。ですから芸術の教養が身に付いている日本人は、とても少ないでしょう。
少し前、東京大学の食堂の改修工事に伴って、壁に飾られていた有名画家の絵が誤って破棄されるという事件(あえて事件と言わせていただきます)が起きました。なんと、その絵はカッターのようなもので細かく切り刻まれてしまったのだそうです。なぜ、こんな悲しいことが起きたのでしょうか?
これも教養不足を象徴する出来事だと思います。その絵の作者や価値を知らなかったとしても、なぜ、破棄する前に「この絵は誰が描いたのだろう」「なぜ、ここに飾られているのだろう」と考えなかったのか。
そこまで考えが至らなかったとしても「本当に捨ててよいものか」と一旦立ち止まって考える人がいれば、結果は違っていたのではないでしょうか。誰が描いたどんな絵かも分からないのに「捨てる」という決断に至ってしまったことが本当に残念です。
では、日本人の芸術に関する教養不足は、一体何が原因なのでしょうか。勉強が足りないからなのかというと、そうではないと思います。
根本的な問題は「興味・関心がないこと」ではないでしょうか。興味がなければ、どんなに美しい絵画を観ても、どんなにすばらしい音楽を聴いても何も感じないでしょうし、そこから得られるものはありません。
一方、絵に対する予備知識はなくても、「どんなテーマで描かれたんだろう」「この絵のすばらしさはどこだろう」などと興味を持って見れば、その絵から何かを考えたり感じたりすることはできます。その繰り返しが教養を深めるのではないでしょうか。ただ美術館に行ったり美術史の本を読んで勉強したりさえすれば、芸術の教養が身に付くわけではありません。
実は、日本人は世界一「展覧会」が好きだと言われているそうです。古いデータですが、イギリスの『アート・ニュースペーパー』によると、2009年に開かれた世界の展覧会における1日の平均来場者数を比較したランキングでは、1~4位までを日本の展覧会が独占しました。
1位 東京国立博物館「国宝阿修羅展」(1万5960人/日)
2位 奈良国立博物館「第61回正倉院展」(1万4965人/日)
3位 東京国立博物館「皇室の名宝―日本美の華」(9473人/日)
4位 国立西洋美術館「ルーヴル美術館展17世紀ヨーロッパ絵画」(9267人/日)
2017年度に行われた展覧会の来場者数を見ても、総入場者数が30万人を超えた展覧会は18もありました。うち6つの展覧会では50万人を超えています。美術館の前に長蛇の列ができることも珍しくなく、会期中、最高で200分待ちになった展覧会もあったそうです。
今から40年以上前、1974年に東京国立博物館で行われたモナ・リザ展には、150万人以上の人が来場しました。私はまだ小学生でしたが、テレビに映し出された上野公園にズラーッと続く人の列をよく覚えています。日本人は昔から展覧会が好きなのです。
にもかかわらず、芸術に縁がないという日本人が多いのはなぜか。やはり、本当に興味を持って展覧会へ行っている人、作品を見ている人が意外と少ないからではないでしょうか。
展覧会のいびつさに気づきすらしない日本人
あるとき、「レンブラント」や「フェルメール」と銘打った展覧会が開かれて人気を集めたことがありました。私も見に行ったのですが、なんとお目当ての作家の絵は数点のみで、あとはその周辺の作家の作品。「長時間並んでこれでは不満に思う人が多いだろうな」「もともと作品数が少ない作家ではあるものの、『作家とその周辺展』くらいの名前にしておけばいいのに」と思っていたのですが……。
SNSやニュースでそういった感想を目にすることはありませんでしたし、予想に反して、疑問や不満を持った人は多くなかったようです。さらに、美術館の出口付近では、展示作品すべてが有名作家のものと勘違いしている人たちもいました。たくさんの入場者は皆、どのような目的でこの展覧会を見に来ているのだろうと考えさせられました。
展覧会に行っている人のなかには「話題になっているから」「芸能人の○さんが宣伝していたから」「有名だから見ておくべきだ」という理由で足を運ぶ人も多いと思います。もちろん、どんなきっかけでも美術館や博物館に行く人が増えるのは嬉しいですし、それが芸術に親しむ入口になる場合もあるでしょう。でも、行っただけで満足していたら、あとには何も残りません。
興味を持って作品を見て、心から楽しんでほしいのです。そうすれば、自分が本当に好きだと思う作品に出会えることもあるでしょうし、そこからさらに興味が広がって、もっと知りたい、見たいという欲求が生まれるのではないでしょうか。せっかく美術館へ出かけても、ただ順路通り進んで、飾られたものをぼーっと眺めるだけでは、もったいないものです。
教養不足は、図工・美術教育の減少がもたらした
日本人が芸術に興味を持てなくなってしまった背景には、図工・美術教育の問題があると思います。
現在、私が理事長を務めている「銀座ギャラリーズ(銀座の画廊37軒で組織された任意団体)」では、銀座柳画廊の野呂洋子さんが音頭をとって、銀座にある泰明小学校の鑑賞授業の場として画廊を提供し、たくさんの子どもたちを受け入れてきました。そういったご縁から、泰明小学校の図工の授業を見学に行かせていただいたことがあります。
そのとき行われていた授業は、「木」というテーマで、子どもたちに好きなように表現させるというもの。画用紙いっぱいに木を描いている子や、小さい木のまわりの風景まで細かく描写している子、なかには拾ってきた木の枝をはりつけている子も……。自由な発想で作品作りに熱中している子どもたちは、とても生き生きとしています。
先生が「これは何?」「どうしてこの色にしたの?」などと尋ねると、それぞれの子どもが「○だから」「△と思ったから」などと自分の意見をはっきりと伝えている姿も印象的でした。「こんなに楽しい授業なら、美術を好きになる子も増えるはず」と感激しました。
ところが、別の機会にほかの小学校に行ってみたとき、その学校に飾られていた子どもたちの絵が、お手本を見て書いた習字のように同じ構図・同じ色の絵ばかりだったのです。実は、このようなケースは、珍しくないそうです。
おそらく、教師はただ景色を写真のように描き写すこと、丁寧に色が塗れていることなど、決められた枠からはみ出さないのをよいこととして指導をしたのでしょう。このような画一的な教育を受けた子どもに、想像力や表現力、積極性などが身に付くでしょうか? 答えは「NO」です。
またこのような授業では、図工や美術が「楽しくないもの」「難しいもの」という意識を植え付けてしまうと思います。これでは、生活のなかで芸術に親しむ人が育つわけがありません。
ただ、教師の皆さんを責めることはできません。教師自体が、同じような授業を受けてきたのでしょうし、図工・美術の指導法を専門的に習得した先生ばかりではないからです。そういう画一的な授業を行っている先生たちに悪気はなく、自分が正しいと信じて、あるいは何の疑問も持たずに授業を行っているのでしょう。
さらに問題なのは、図工や美術の時間が減らされていることです。
小学校1年生の場合、この70年くらいの間に約35%も減少しています。いわゆる「ゆとり教育」が始まったとされる2002年からは、それまで年間70時間だった小学校3~6年生までの図工の時間が、3・4年生は60時間、5・6年生は50時間にまで減りました。残念ながら、2020年から施行される新しい学習指導要領でも、その時間数に変更はありません。
しかし、そんななかでも、国は美術や音楽といった芸術の教育の重要性を見直し、その質を向上させようとする取り組みを始めています。例えば、鑑賞教育もその一つ。学校の図工や美術教育では、作品を創作する「表現」だけでなく、美術作品を「鑑賞」して思考力や想像力、表現力を伸ばす授業も行われるようになっています。
また、文化庁は、2010年から「次世代を担う子どもの文化芸術体験事業」の一つとして、コミュニケーション能力を育てるための芸術表現体験活動を取り入れたワークショップ型の授業を実施しているそうです。例えば、子どもたちがプロの演出家の協力のもと、ミニドラマを作って上演するなどの授業が行われています。
今後、限られた時間のなかでも子どもたちが芸術を心から楽しんだり、自分の個性を自由に表現したりできるような授業が増えることに期待しています。そして、10年後、20年後には、芸術がもっと身近なものになっていってほしいと願います。