父から認知症になった母の介護を頼まれた長男
今回ご紹介するのは、父、母、長男、長女、次男の5人家族です。父と母は20歳離れた年の差カップルで、子どもたちが成人をしたころには、父はすでに還暦を迎えていました。
「俺は母さんよりもだいぶ先に死んでしまうから、残されるお母さんのことは、みんなで守ってくれよ」というのが父の口癖でした。しかし事態は思わぬ方向へと向かいます。
ある、昼下がり。母が父に「今日の昼ごはん、どうしますか?」と聞いてきました。「えっ、昼ご飯なら、さっき食べたじゃないか。夜ご飯の間違いかい?」と父は母にたずねました。「あっ、そうでしたね。お昼食べましたね」と母。この一件から、父は母に対しておかしいと思うことが増えていったといいます。
今日が何日なのか思い出せない、水道の出しっぱなしが目立つようになった、携帯電話をどこに置いたか思い出せない、家の近所で道がわからなくなる……。そして病院に行った結果、母は初期の認知症であるということがわかったのです。
母の診断を受けて、父は、遺言書をつくることに決めたといいます。その内容は、先に子どもたちに知らされました。
「先日、遺言書を作ってきた。そこには私の財産の分け方が書いてある。母さんの面倒は、お前(=長男)に頼む。その代わり、財産は多く分けるように記してある。2人(=長女、次男)は、兄貴のサポートをしてくれ。3人、助け合ってくれよ」
そのような会話がされたあと、母のサポートは、実家からほど近くに住む長男が中心となって行われました。母も、自分が認知症であるということを理解しつつも、これまでできていたことができなくなったり、思い出せなくなったりして、自信をなくしてしまったのでしょう。引きこもりがちになっていきました。
そんな母を長男は励まし、よく外に連れ出していました。数年後、父が亡くなりました。最期まで母のことを心配し、子どもたちに「母さんのことは頼むぞ」と言い残して。
父の死後、遺言書の通り、遺産分割が行われ、長男に1,500万円と実家が、長女と次男には1,000万円が相続されました。遺言書には、長男が多く相続する代わりに母の介護をすること、先代からの実家は長男が守ることが補足として記されていました。
「兄さん、母さんのことは頼むよ。俺らもできる限り、サポートするからさ」という次男に対し、「わかっているさ、父さんの遺志だからな」と長男。しかし、それからしばらくして、トラブルが起きるのです。
半年後…実家に認知症の母はいなくなっていた
それは、父が亡くなって半年ほど経ったころ。次男と長女が実家を訪れた日のことです。母の姿が見当たりません。長男に問いかけると、驚きの事実が判明しました。1ヵ月前、母は介護施設に入所したというのです。
次男「母さんが施設に!? 聞いてないぞ、そんなこと」
長男「バタバタしていて、伝えるのが遅くなった。すまん」
長女「介護施設に入所って、結構お金かかるじゃない。どうしたのよ」
長女の問いかけに対し、長男は「実家は売った」と答えました。不動産価格が上昇しているなか、想像以上に高く売れたのだとか。
次男「実家は、祖父さん祖母さんのころからのものだから、長男であるお前が守れと、遺言書にあっただろう」
長女「そうよ。それに母さんのことを頼むって。だから相続額を増やしたって、遺言書にあったじゃない。それなのに、実家を売って、施設任せってヒドイじゃない」
長男「仕方がないだろ! 最近じゃ、母さん、着替えもトイレも風呂も食事も、全部、手を貸さないとできないんだぞ。ヘルパーさんに来てもらうだけじゃ、もう無理なんだよ」
次男「遺産を多くもらったのに、たった半年で、母さんを施設にあずけるなんて。父さんの遺志を尊重しろよ」
長女「そうよ、遺言書に書いてあったことが守られていないわ。遺産分割はやり直しよ!」
長男「いいよ、それでも。遺産なんて全部くれてやる! お前らは、介護がどれだけ大変か、わかってないんだ!」
母の認知症が進行し、徘徊が多くなり警察の世話になったこと、かんしゃくを起こしては手がつけられなくなっていたこと、家族の名前も忘れてしまったこと……介護の大変さを訴える兄の言葉は、このあともしばらく続きました。そして長女と次男は、このあと施設にいる母に会いに行き、やっと兄の大変さを理解したといいます。
65歳の4人に1人が認知症になっている
今回の事例では、遺産分割まではスムーズに進みました。しかし遺言書に書かれた内容が守られているか、否かでトラブルが生じてしまったようです。
一度成立した遺産分割協議であっても、相続人全員の同意があればやり直すことは可能です。相続の現場でも、認知症はよく問題になります。よくあるのが、被相続人が認知症になった場合です。
「私の親が認知症になってしまったのですが、今からできる相続税対策はありますか?」
そんな質問を受けたら、筆者は「残念ながら、今からできる相続税対策は一切ありません」と答えています。
相続の相談に来る方のほとんどが、ピンピンコロリ(亡くなる直前まで元気で、急に亡くなってしまうこと)が前提で、相続対策を考えています。しかし、注意をしなければいけないのは、認知症などの症状が進んでしまった場合、そこから先は、相続対策は一切できなくなってしまうということです。
現在、世の中のどれくらいの人が、認知症(もしくはその疑いがある)か知っていますか? 厚生労働省のデータによれば、なんと65歳以上の28%は、すでに認知症であるかその疑いがあるのです。人の死は必ず訪れますが、認知症になる確率は無視できません。相続対策よりも、認知症対策の方が緊急度、重要度が高いかもしれません。
認知症でよく争点になるのが、遺言書です。せっかく被相続人が遺言書を残してくれたのに、「遺言書を書いたときにはすでに認知症だったから、この遺言書は無効だ!」ということでトラブルが起きるのです。
このようなトラブルが起きないよう、遺言書は公正証書遺言をおすすめします。これは、公証役場で公証人が作ってくれる、安全性と確実性が非常に高い遺言書です。さらに作成の前後1ヵ月以内に、主治医に「認知症ではない」という診断書をもらっておくと、「認知症だ!」と否認される恐れもなくなるでしょう。
認知症対策で注目される「家族信託」とは?
認知症で本当に恐いのは、「デッドロック」と呼ばれる現象です。これは、不動産などの所有者が、認知症などにより自分の意思を示せなくなると、売ることも貸すことも取り壊すこともできなくなる、つまり、誰も手が付けられなくなる現象のことです。
認知症などで判断能力が低下してしまった人を法的に支援する「成年後見制度」を聞いたことはあるでしょう。判断能力が低下してしまった人のために、親族や弁護士、司法書士などが、その本人に代わって財産管理や契約行為を行うことができる制度です。しかし後見人は、その人の財産を守ることが役目であり、財産を運用したり、組み替えたりすることが役目ではありません。不動産を売却することも建て替えることもできないのです。
そこで注目したいのが家族信託です。ひと言でいうと、「財産の所有権のうち、管理する権利だけを信頼できる家族に移す」というものです。不動産の所有権には管理をする権利とお金をもらう権利がありますが、管理をする権利だけを移すのが家族信託です。お金をもらう権利はそのままの所有者に残すことで、不動産の管理は信頼できる家族に任せて、家賃や売却代金はそのままの所有者が得ることができます。
これまで不動産の管理をすべて引き継がせるには、所有権をまるごと移す「生前贈与」が主流でした。生前贈与では、主有権を丸ごと移すので、受益権(お金をもらう権利)も移すことになります。この場合には当然、多額の贈与税の負担が発生し、不動産取得税や登録免許税という別の税金もかかります。
一方で、家族信託の場合、贈与税はかかりません。あくまで管理する権利だけを移すので、受益権はそのままです。また不動産取得税も非課税です。登録免許税はかかりますが、生前贈与の場合と比べるとその負担は5分の1です。
【動画/筆者が「家族信託」について分かりやすく解説】
橘慶太
円満相続税理士法人