自分の生きる方向を決めてくれた、亡くなった父の言葉
厳格な父によって育てられた私は、余り褒められた記憶がない。それは私が勉強やスポーツで突出した成績が残せなかったせいもあるが、そもそも父は大の仕事人間で、家にもほとんどいなかった。そんな私は子供ながらにして、「お父さんは自分よりも、仕事の方が大事なんだ」と思っていた。
そして、そんなある日のことだ。私は定期テストにおいて、英語で一〇〇点を取ってきた。その日、出張帰りで珍しく陽が落ちる前に帰ってきた父は「この子は将来、学校の英語の先生になれるかもしれないな」と、頭を撫でながら褒めてくれた。褒められること自体が久しぶりで、私はとても嬉しかったのを覚えている。そして父はその日の夜、私が大好きだったパイナップルピザをデリバリーするよう、母に指示した。
そして、それから僅か五日後のことだった。私が学校で授業を受けていた時、父が倒れたという知らせを聞いたのは。
急いで病院に駆け付けた時には、既に父は息を引き取っていた。脳梗塞だったらしい。まるで安っぽいテレビドラマのワンシーンのように、手術着の担当医が、私と母にお悔やみを告げた。父の最後の言葉は「真穂、大丈夫。大丈夫だ」だったらしい。私は急に足の力が抜け、その場に崩れ落ち、気を失った。結局、ピザを囲んだあの日の夕食が、家族三人の最後の思い出になった。
それから数週間後、たまたま学校で『将来の夢』について、作文を書く機会があった。作文自体は苦手でいつもギリギリに提出していたが、その時私は何の迷いもなく、『学校の英語の先生になりたいです』とクラスの中で真っ先に書き上げ、担任の先生を驚かせた。その時、私はすぐ右隣に父の存在を感じた。意思を感じた。『夢』なんて甘い言葉じゃなく、残された自分の『義務』だと思った。自分の生きる方向が定まった瞬間だった。
それから先、私は中学校において、英語の学年トップの座を誰にも明け渡さなかった。死んだって渡すものかと思った。それ以降、私は何度も定期テストで一〇〇点を取ってきては、その日は陽が落ちる前に家に飛んで帰った。
高校は県内有数の進学校に進んだ私は、さすがに英語でトップを取り続けることはできなかったが、それでも優秀な成績を修め続け、都内の教育大学の英語学科にストレート合格した。合格発表日当日、会場から帰ってきた私は父の遺影の前に置かれていた宅配ピザのお供えを見て、母もまたあの日のことを覚えていたんだな、とその場に泣き崩れた。パイナップルの甘くて懐かしい匂いが、家中にあふれていた。
それなら、こんな私がどうして『読み書き』限定の英語教師になってしまったのか。今まで英会話スクールには通わなかったのか、留学はしなかったのか。人は疑問に思うかもしれない。もちろん、私だって何もしてこなかったわけではない。それこそ、必死にもがいてきたのだ。そんなの、当たり前ではないか。
英会話スクールに入会しても、上達を感じられない…
大学に入学したと同時に、私はある大手の英会話スクールに入会した。それまでの私の英語に明らかに不足していたもの。それは、『ネイティブとの会話の機会』だった。当時、私は確信していた。私の英語力は、たとえるのであれば、蕾の付いた樹木だ。あとはネイティブと会話をしていれば、自然と綺麗な花が咲く。受験勉強はそのための『下準備』だったのだ。
満開の桜の下、私は今後の英語人生に、期待に胸を膨らませていた。私は受付スタッフの関口(せきぐち)さんと話し合い、有効期限一年のグループレッスン百回コースを申し込んだ。目安としては週二回の通学ペースで、一回当たりの単価は三千円。総額にすると三十万円のオーソドックスなコースだった。
学費は一旦、父が家族のために遺した預金口座から賄われることになった。私は入会と同時にアルバイトを始め、給料をその口座に返していくと母に約束した。もちろん、最終的には自分で支払うことにはなるのだが、父のお金を一旦は使わせてもらう以上、絶対に有意義なものにしないといけない。私は父の遺影の前で成功を誓った。
レッスン初日、私はネイティブ講師とレベルチェックテストを行った。もちろん今まで学校でALT の授業を受けたことはあったが、こうして一対一のインタビュー形式でネイティブと話すのは初めてだった。始終緊張しっぱなしで、自分の名前の『桜木』を『シャクラギ』と噛んでしまうほどだった私は、結局レベル10まである中のレベル3に振り分けられた。低いとは思ったが、その時はすぐに上のレベルに上がれると信じて疑わなかった。
こうして順調に滑り出すはずの英会話生活だったが、レッスンを重ねる度に、私は疑問を覚えるようになった。そう、どれだけレッスンを受けても『上達を実感できなかった』のだ。
確かにレッスンでは、生の英語を対面で沢山聞くことができた。それに、洋画や海外ドラマに出てくるようなカジュアルな英語表現やスラングも沢山教えてもらえた。講師のジョークも面白く、今までの文法や読解中心の学校英語に比べると、はるかに楽しかった。しかしながら、いつまで経っても私の英語はペラペラには程遠く、沈黙や発話のミスは一向に減る気配がなかったのである。
私はその現状にイライラし始めた。何故なら、今まで英語を学んできて、上達を実感しないことなど一度もなかったからだ。勉強した分、偏差値は上がった。英語は決して私を一度も裏切らなかった。
そして、そんなある日のことだ。私はあるサラリーマンの方とレッスンで二人になった。基本的にグループレッスンの生徒数は四人だが、その日はたまたま他の受講生がいなかった。そして、その方は驚くほど英語が流暢で、結局レッスン時間のほとんどを喋り倒し、私はそれをただ、傍観しているだけで終わってしまった。英語であんなに悔しい思いをしたのは初めてだった。そしてこれはあとで知ったのだが、その方はなんと留学経験者だった。ただ、入会したばかりで、英語のブランクがあったことから、とりあえずレベル3から始められた、とのことだった。
私はその後、関口さんに「留学経験者と同じクラスなんてアンフェアじゃないでしょうか」と苦情を伝えた。しかし、「どうして自分から積極的に会話に入っていかなかったんですか? 聞き手に回っているようでは、いつまで経っても話せるようにはなりませんよ」と、関口さんは私を事務的にあしらった。確かに一理ある。しかし、それができないから、こうやって高額なお金を払ってまでスクールに通っているんじゃないか。私はその対応に納得がいかなかった。
こうして徐々にモチベーションが下がり、スクールから足が遠のくようになったある日、私は母から呼び出しを受けた。
「真穂。この一カ月、英会話スクールに行ってないって本当なの? 今日、関口さんという方から電話がかかってきたのよ。入院でもしたんじゃないかって」
私はそのあとの説教に一切反論しなかった。きっとどう返しても、「そんなの、会話に加わろうとしていない、あんたが悪い」の流れになるに決まっている。しかし、その通りでもあった。結局私は「気持ちを改めて、スクール通いを再開する」と約束して、その場を収拾した。
もちろん、通っていなかった間、何もしていなかったわけではない。真面目に大学の英語の授業を受けてもいたし、空いた時間はスクールの教材で勉強したり、付属のCDを聞いたりと、自分なりに勉強を続けてはいた。しかし、ネイティブと話してこその英会話である。上達を実感しようもなかった。
その後、久しぶりにスクールを訪れた私は、関口さんから「このままのペースでは有効期限に間に合わないので、マンツーマンコースに切り替えた方がいい」との提案を受け、驚いた。そんなに長い間、私はサボってしまっていたのか。このままでは授業料を無駄にしてしまう。
私はコース変更の説明を詳しく聞いた。レッスン単価は約二倍にはなるが、週二回ペースで有効期限内の消化が十分可能となる。また、講師は選べないが、他の受講生がいないため、レッスンに集中できる。加えて、講師も独占できるので、自分の話す時間が何倍にもなるらしい。そこまで聞いたら、私がコース変更を決断するまで、時間はかからなかった。
そして始まったマンツーマンコースは、思った以上に快適だった。やはり一対一はいい。周りを気にせず、レッスンに集中できる。毎回英語力の向上を褒められ、停滞していたモチベーションも上向きになるのを感じた。こんなことであれば、もっと早くからコースを切り替えてもよかったと、素直にそう思った。
しかしそんなある日のことだ。私はついにジョーカーを引いてしまったのだ。講師の名前はジェームス。四十代のアメリカ人で、彼はレッスンの初っ端から恐ろしく不機嫌だった。
「Good afternoon. How are you?」
「あっ、はい、・・・アイムファイン、サンキュー。アンデュー?」
「What’s your name?」
え? 彼の体調を聞いたはずなのに、完全に流されて、私は混乱した。
「え、え・・・と、マイネームイズマホサクラーギ。ホワッツユアネーム?」
「Can’t you see my name tag?」
そう言って、ジェームスは乱暴に胸元のネームタグを指さした。「私のネームタグが見えないのか?」って?そりゃ、見えるけど。
「あ、ソー、ユアネームイズジェームス。ライト?」
「Why are you so interested in my name?」
それからも力強い口調で質問が続き、片言で返す私は、次第に言葉が一つも出なくなった。英語を話す自信が完全に折れてしまったのだ。その後、ジェームスは私が無言になると質問をやめ、自分のことをベラベラと早口で喋り始めた。なんとか聞き取れたのは、彼が今朝、恋人とケンカをしたことくらいだった。残りはほぼ意味が分からず、私は適当に相槌を入れ、レッスンが終わるのをひたすら待った。人生の中で最も苦痛で、屈辱の五十分間だった。
もちろんレッスンの後、私は関口さんに苦情を伝えたが、「愚痴だって、一つの会話ですからね」と、やはり事務的にあしらわれた。結局私は高いお金を払ってまで、ネイティブの愚痴を意味も分からず、ただ一方的に聞かされただけだった。何の罰ゲームなんだろう、これは。
その日の夜、私は布団にくるまり、号泣した。何故六年間も真面目に英語を勉強してきたのに、それがスピーキングやリスニングに活かせられないんだろう?私が今まで習ってきたものは一体何だったんだろう?ごめんなさい、お父さん。一時的に借りているお金、無駄になりそう。こんなことなら、スクールに入らなきゃよかった。
それ以来、通学ペースが再びガクンと落ち、最終的には通わなくなった。それはジェームスへの恐怖感も一因ではあったが、それ以上に英語への自信をさらに失うことが怖かったのだ。結局自分には英会話は無理なんじゃないだろうか。その結論に達するのが怖かった。
最終的に私のレベルは3から5にまで上がっていた。しかし、それは緊張することがなくなっただけで、結局私の英語力は向上したようには思えなかった。現にジェームスを前にして、全くの無力だったではないか。講師におだてられて、ただ舞い上がっていただけだった。
通わなくなったことが再びバレた時、母は怒らなかった代わりに悲しい顔をした。辛かった。親を失望させてしまうことほど、親不孝なことってない。結局、未消化分のポイントは換算すると約十二万円分だった。しかし、その時は『惜しい』とは思わなかった。むしろ、『どうせ通ったところで意味がなかっただろう』という気持ちの方が勝っていた。そう、どれだけあのレッスンを受け続けていたとしても、私の英語の花が咲く気配は、一向に感じられなかったのである。
(次回に続く)