半世紀にわたり障がい者を雇用…現在は従業員の7割超
◆思いがけぬ脚光と変わらない日常
2008(平成20)年3月、一冊の本が出版された。『日本でいちばん大切にしたい会社』と題されたその本は、経営学者であり大学教授でもある坂本光司さんが、6000社を越える全国の中小企業訪問を行ったうえでその存在を知らせたいと願った会社5社を紹介したものだ。
坂本さんがこの本を執筆するきっかけとなったのが、日本理化学工業への訪問であり、障がい者雇用に尽くした大山泰弘会長の言葉と社員の喜びの表情が懇篤(こんとく)に綴(つづ)られている。
この書籍の反響は思いもよらないものだった。半世紀にわたり知的障がい者を雇用し、社員の7割が障がい者という老舗のチョーク製造会社の金銭的利益のみを目的にしない姿勢が注目の的となった。
同年の11月、テレビ東京とその系列局で放映されている経済番組『日経スペシャルカンブリア宮殿~村上龍の経済トークライブ~』に大山会長が出演する。長年の知的障がい者雇用の取り組みとともに、大山会長の「障がい者に働く幸せを教わった」というコメントが紹介され、利潤至上主義だけでは作り得ない企業の価値が伝えられると大きな話題になった。
書籍やテレビというメディアの力により、創業者の次男であり1974(昭和49)年から34年間社長を務めた大山泰弘さんが信じて歩んできた道に光が当たった。その後も思いがけないほどの関心が集まり、日本理化学工業は、利益とは相反すると考えられてきたヒューマニズムを併せ持った特別な会社として、その名を知られることになるのである。
「幸せを創造する会社」と呼ばれ、全国から脚光を浴びるこの会社。現在、率いているのは4代目社長である大山隆久さんだ。泰弘さんの長男である隆久さんは、2008(平成20)年に父親からその任を引き継いでいる。
社長職を息子に譲った泰弘さんは会長となって籍を残したが、実質の経営責任は当時40歳だった隆久さんが負うことになった。
以後、急激な右肩上がりを望めないチョーク業界の現実に向き合いながら、障がい者雇用とチョークの品質改良とシェア拡大、さらには自社のオリジナル商品の開発に邁進してきた隆久さん。
私は彼に、「なぜこうした会社が誕生し、粉の出ないチョークを作り出し、知的障がい者がその製造の担い手となれたのか」と、聞いた。そして、メディアによって報じられる華やかな賞賛の陰にあるはずの困難や絶望すら言葉にしてほしい、と伝えたのだ。
すると、隆久さんは小さく頷いた。
「どなたも、障がい者雇用というと『社会貢献に頭が下がります』とか『素晴らしい事業を行っていますね』などと褒め称えてくださいます。けれど、私たちにとって、それは特別なことではなく当たり前のことなんです。会長である父が作り上げた会社を継いだ私にとっては、社会正義や人生の使命といった高揚感などまったくありません。安全に精巧にチョークを生産し、心を込めて販売していく。それを1日1日積み重ねていくだけです」
日本理化学工業は、健常者と同じ最低賃金を守り、知的障がい者の雇用を実現している。
1975(昭和50)年には全国初となる「心身障害者多数雇用モデル工場」(当時)を川崎市に開設。それよりも8年前の1967(昭和42)年には、北海道美唄(びばい)市の誘致に応じ、同様の工場を開設している。
その取り組みが書籍やテレビで紹介され、企業家としてだけでなく篤志家(とくしか)として大山会長の名が轟(とどろ)いた。もちろん、現社長の隆久さんも同様だ。
だが、英雄的な扱いや賞賛の声にこそ戸惑っている、と隆久さんは微笑(ほほえ)む。
「こんなに小さな、そしてまだまだ不完全な会社ですよ。ただ、これまで積み重ねてきた仕事の記録や職場での出来事、取り組み、私に希望を与えてくれる社員の皆さんは私たちの誇りです。そのことを綴っていただけるのであれば、どうぞ、何でもどんなことでも、聞いて、書いてください」
そしてこう続けた。
「障がいがありながらも懸命に働く社員から、他には代えがたい幸福を授けられます。それは本当です。人が人を気に掛け、力になりたいと素直に思えます。また、人間に役割はあっても優劣などないと気が付けます。この思いを得たければどうか気負うことなく、障がいのある方々を受け入れる環境を作り、雇用してください、と強く申し上げたいくらいです」
もちろん、喜びの先には事業の厳しさもある。
「7割を超す知的障がい者の社員と、3割弱の社員と、その家族を思うと、もっと事業を拡張して売上を伸ばさなければならないとも思い続けています。その過程では、窮地に立ったことも、このままでいいのかと壁にぶち当たったこともあります」
それでも隆久さんは、この道以外の道を選ばなかった。
「私たちにはありのままの姿しか示せません。ありのままこそが素晴らしい。そのことも障がいのある社員たちから教わりました」
隆久さんは、自らライトバンを駆って営業に飛び回ってもいる。その時間をやりくりし、度重なるインタビューを受けることを承諾してくれた。繕うことなく、また謙遜することもなく、事実だけを克明に伝えるため話をしてくれたのだった。
「高度な集中力」を持つ、製造ラインで働く社員たち
◆チョーク製造ラインで働く知的障がい者たち
「私たちの会社は、大手メーカーのように、何十人もの障がい者を毎年雇用することはできません。けれど、縁あって社員になってくれたなら、遣り甲斐のある仕事に就いてもらい、技術を磨き、健康なら定年まで勤め上げてもらいます。10代や20代前半で入社した社員は、30年、40年、50年と長年にわたって働いてくれます。つまり、日本理化学工業の原動力であり、歴史の担い手でもあるのです」
川崎工場の1階にあるチョークの製造ラインを案内された私は、すべての工程で作業に打ち込む従業員の姿に、日本理化学工業の歴史を感じていた。
社長は誇らしげに言った。
「チョークの製造ラインで働く社員は14〜15人。全員が障がいがあります。繁忙期や欠勤がある場合などは、健常者の社員がラインに入ることもありますが、通常は知的障がいがある社員だけに任せています。慣れない健常者の社員が入ったほうが、むしろ足手まといになるんですよ」
隆久さんからチョーク製造の工程の説明を受ける。
工程は、①混練工程、②押出し工程、③切断工程、④乾燥工程、⑤コーティング工程、⑥梱包工程、とおおよそ6段階に分かれている。
「この川崎工場の周辺には、特別支援学校が6校ほどあります(知的障がい児、肢体不自由児、病弱児などに対して、幼稚園・小学校・中学校・高等学校に準じる教育を行うとともに障がいによる困難を克服するために必要な知識・技能などを養うことを目的とする学校を『養護学校』と呼んでいたが、2007〈平成19〉年の学校教育法の改正により、法律上の区分として『特別支援学校』と呼ばれることになった)が、そこから毎年、何人かの生徒が就業研修にやってきます」
特別支援学校の高等部の2年生から3年生の生徒は、地域の企業で1カ月弱の就業実習を行っているという。
「我が社はこの職場実習を長年行っていて、生徒さんたちには、いくつかの作業工程を経験してもらいます。そのときには、作業だけでなく生活全般の様子を見て評価をします。チョーク作りに興味があり、また向いていると思う生徒さんとは、ご家族を含め就職に向けた面接に入ります」
実習期間を経た社員は、適性を見ながら本人の希望も聞き、配属を決めていく。
「新人社員に仕事を覚えてもらう手順も、一般の企業とは違うかもしれません。第一は本人の理解力です。それに合わせて作業を選ぶので、むしろ入社後の技術や作業の習得は皆早いですよ」
作業場を歩き、その生産過程をくまなく見学させてもらいながら、私はオートメーションの工場にはない人のエネルギーを感じて、戸惑っていた。工場の製造ラインというより、むしろ職人たちの工房である。働き手の集中力が尋常ではないのだ。
そう社長に告げると「その通りです」と言った。
「健常者なら15分、30分しか続かない高度な集中力を彼らは持ち、それを数時間継続することができます。私たちが単純作業を何時間も繰り返すと緊張が切れたときにミスが起きますが、この工場でラインを任せている社員は集中力を難なく持続する能力があるんです」
それぞれの過程で正確に動く彼らは、同時に不良品などの検品も行う。
「製造途中のチョークに不具合があった場合も、私たちには見えない歪みや気泡を見つけ出してくれます。工業ロボットでは不可能な作業です。違いを見極める鷹のような鋭い目を、彼らは持っているんです」
社長の解説を聞きながら、それぞれの作業に注目すると、熟練の技が駆使されていることがわかる。誰かの動きが滞れば、ラインはその度に止まることになるのだが、この工場では就業の8時間、一度も止まることがない。
私は作業場でチョークを作る彼らの手元と表情に目を向けた。同じ作業が繰り返されていくが、単なる流れ作業ではない。すべての工程で、彼らが訓練や経験によって身に付けた技術が活かされていく。
混練されて粘土状になった材料を、チョーク押出し成形機に入れる作業を担当する菅井雅明(すがいまさあき)さんに、入社日を聞いた。
「91年。3月26日だよ」
菅井さんは〝暦の天才〟で、西暦と月日を言えば、正確に曜日を言い当てる特技がある。
「カレンダーが頭の中にあるのですか」
菅井さんは大きく頷いた。
「うん、何曜日って」
隆久さんが、ふいに年月日を言った。
「1936年4月29日」
一秒と待たず、菅井さんが答えた。
「水曜日」
「2575年11月5日」
「日曜日」
菅井さんは楽しげに曜日を答える、何度でも。
「菅井君は2011年に20年表彰を受けました。40代になって、職場のムードメーカーでもありますよ」
押出し担当の柳沢誠さんは、菅井さんと同い年だ。
「では、柳沢さんも勤続20年の表彰を?」
社長に掛けた声に柳沢さん本人が答えてくれた。
「まだ、あと4年」
隆久さんは、嬉しそうに語り出した。
「勤続表彰があります。10年、20年、30年、40年、と。皆それを励みや目標にしてくれるんですよ」
ラインのなかでも最も重要な押出し工程では、押出し成形機から長く練り上げられた粘土状のチョークが伸びている。作業する者たちは、それを精巧に美しく「3本の束×5列」に並べていくのだ。機械よりも正確な間隔で、真っすぐに。
その粘土状の真っすぐなチョークを切断し、「かじり」を取り除き、乾燥機へと入れる工程を担当するのは中山文章(ふみあき)さん。彼は、19歳で日本理化学工業へ入社した。
ボタンを押して切断機を操作し、チョークの長さに切断する。そのチョークの品質を見て、不良品や切断されたチョークの端だけフォークで刺して取り除き、乾燥機へと運ぶ。取り除く素早さや正確さは、あまりに鮮やかだ。
「『かじり』とは何ですか」
そう問いかけると、隆久さんがプレートに並べられたチョークを見ながら解説してくれた。
「ご覧のように、乾燥前の柔らかいチョークを3本の束×5列でプレートに並べていくわけですが、この並べ方が悪いと曲がったり、他のチョークとくっ付いたりして、不良品になります。それを『かじり』と呼んでいるんです」
かじりを取り除き、切断したチョークの両端を取り除くエキスパートがまさに中山さんだ。チョークのつぶれ部分(端の部分)を取るその道具は、食事用のフォークだ。 隆久さんは、作業に使うフォークを手にとった。
「この作業にフォークを使おう、と言ったのもラインで働く社員でしたよ」
フォークの先端は、チョークのつぶれ部分を取り除くために程よく広げられている。製品となるチョーク本体を決して傷つけない巧みさは精密機器のようだ。同時に、成形されたばかりのチョークの歪みや曲がり、小さな気泡などをこの作業時に見つけ、それもフォークで刺して取り除く。
「焼く前の柔らかいチョークをこんなに繊細に扱えるのは彼だけです。私がやればチョークは曲がるし、指紋は付くし、正しい製品にはなりませんよ」
中山さんは、真っすぐな正しいチョークを傷つけず、「かじり」だけを取り除いていく。
「そのときには、『かじりがありました』と声を掛けることになっています。押出しの作業を担当する者は『もうかじりを出さないぞ!』と気を引き締めますからね」
中山さんの横顔に、私はこう声を掛けた。
「傷ってどういう感じなんですか? 傷のあるチョーク、教えてくれますか」
工場中に元気な声が響いた。
「かじりはありません!」
「一瞬見ただけでわかるんですね」
中山さんはこくりと大きく頷いている。次に手にしたプレートを見た刹那(せつな)、彼の表情が変わった。
「あっ! かじり、ありました! くっ付いてる」
「どれ?」
一目見ただけではわからない。
「ありました。あった、下のほう」
「どこどこ?」
「これです、これ」
「え、こんなにちょっと?」
そこには隣のチョークに触れているのかいないのかわからないほど、微(かす)かに曲がったチョークが見えた。
「これも傷になるので、製品としては出せません。日本工業規格(JIS)は絶対なので、その砦(とりで)を守ってくれているのが彼ですね」
新しいプレートを見ている中山さんに今一度、声を掛ける。
「このプレートにはかじりはありますか」
「ありません」
次の瞬間、彼は歯ブラシを手にしていた。
「この歯ブラシはどこに使うんですか」
中山さん本人が答えた。
「この歯ブラシはね、こうやって、カス落としに使うよ」
切断のワイヤーにチョークのカスが付いていたら、成形の精度を保つため歯ブラシできれいに落とすのだ。
「カスが付いたときに、このブラシできれいにするんですね」
「そう。切るときに」
小気味よい作業を分ほど見学し、その場を離れる私は彼の背に頭を下げた。
「作業を見せてくださり、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
中山さんの声に、製造ラインのすべての人たちの声が続いた。
何重ものありがとうを聴きながら、私は静かに製造ラインを離れた。