なぜ「凡庸」だった人が輝かしい功績を残せたのか?
人は、歴史に名を残す偉人や世界で活躍する著名人を「自分とはかけ離れた別次元の人間」として見る傾向があります。生まれつきずば抜けた才能をもつ天才が、その能力でたやすく輝かしい業績を挙げたのだと思ってしまうのです。まずは、偉人と呼ばれる人たちでさえ、最初は落ちこぼれ、あるいは凡庸と言われていたことが多かった、ということを知ってください。
国民的俳優であった故高倉健さんは、役者になったばかりのときに「才能がないから諦めた方がいい」と言われ、その怒りをバネに頑張ったのだそうです。映画『タイタニック』で一躍有名になったレオナルド・デイカプリオも、子役時代のオ ーディションで「この子じゃない」という言葉に泣きながら帰ったとインタビューで語っていました。アップル社を設立したスティーブ・ジョブズでさえも、幼少期はさえない子どもだったと言われています。
では、凡庸と言われていた彼らが、果たしてどのように華々しい功績を残すに至ったのでしょうか。その過程を見ていくと、決して生まれもった才能によるものではないことがわかります。彼らは全員、失敗を恐れず、何度でも挑戦し、努力し続けるメンタルセットをもっていたのです。
あのエジソンも、幼い頃から機械が好きではあったそうですが、決して生まれつきの卓越した能力で、あっさりと電球を発明したのではありません。5千回以上という気の遠くなるような回数の実験を繰り返し、失敗を重ね、やっとのことでつくり出すことに成功したのです。
今や世界的なファッションブランド「コム・デ・ギヤルソン」を立ち上げた川久保玲さんも、最初は普通のスタイリストでした。その後、パリでコレクションを発表するようになるも強く批判され、「ボロボロの布のよう」「西洋の服への胃潰」とまでけなされました。
しかし、彼女は「どうしようとしょんぼりしているだけでは何も変わらない」と言って、どんどん新しいことに挑み続けました。あるインタビューで「これをやったら安全でしょう、リスクがないでしょうということが、コム・デ・ギャルソンにとってはリスクです」と、評価や失敗を恐れずに挑戦する必要性を説いています。
たやすく「輝かしい結果」を得られた人はいない
目標を達成するには才能ではなく、継続して挑戦し続けるメンタルセットが大事です。これは芸術分野、運動能力、ビジネススキルなどに加え、勉強に関しても同じです。実際、東大生に話を聞くと、最初はそんなに成績が良いわけではなかったので、ひたすら努力したという人が大勢います。
現役で理科Ⅲ類に入ったS君も、やはり「もともと頭が良くて簡単に合格できたしょ?」と言われることがあるそうで、腑に落ちないと怒っていました。なぜなら、彼が初めて模試を受けたとき、最も低い合格確率のE判定だったからです。だからこそ彼は、がむしゃらに努力したのだと言っていました。
また、先ほどもお話しした、「なぜそんな広範囲にわたって難しいことを知っているのか?」と疑問に思うほどすごい量の知識をもつN君。まさしく博識で、「こういう人を天才というのか」なんて思ったりしました。当然のように、テストはどれもこれも満点に近いのです。
しかし彼の日常生活の話を聞くと、時聞があれば本を読み、何もない日でも眠い目をこすって根性で夜遅くまで勉強をし、自分の能カを伸ばすために人並み外れた努力をしていました。そんなN君の「本当にやりたいことがあるなら、どんなことをしてでもやるはずでしょ?」という言葉を聞いて、天才だとか、生まれつきの才能だとか、そういう言葉で彼を評価するのは失礼だと気づきました。
そもそも、知識なんて覚えなくては頭に入らないのだから、考えてみれば「努力して覚えた」のは明らかなのです。私たちは優れている人に対して、「あの人は才能があるから自分とは違う」と思ってしまいます。しかしそれは、才能という言葉を隠れみのにして、じつは自分が努力していないことに目をつぶっているだけのような気がします。
自分の才能が他人と違うかどうかは、その人と同じ時間と量だけ努力してみて、初めて比べられるものです。輝かしい結果だけに着目すると、もともと才能のある人が「たやすく」「スムーズに」 達成できたと想像してしまいそうですが、実際にそんな人はいないということを、親も子どもも知っておくべきです。
そのためには、子どもが好きな歴史上の人物のことを、一緒に詳しく調べてみるといい かもしれません。必ず、その裏には目標達成のためのとてつもない努力が隠されているは ずです。
別次元の人間と思われる偉人も、じつは努力家だったと知ることで、能力はどこまでも伸ばせるのだというメンタルセットが生まれます。
「最低ランクの高校」を変えた4つのモットーとは?
アメリカの学校を舞台にした『落ちこぼれの天使たち』という映画があります。無気力 勉強のできない生徒たちが、熱血教師の出現により全員全米トップレベルまで成績を上げるという、少々できすぎたような学園ドラマです。
しかし、じつはこの映画はノンフィクションなのです。ロサンゼルスの生活貧困地区にある、落ちこぼれの生徒が集まった最低ランクの高校に、エスカランテ先生という数学の教師が赴任してきました。生徒たちはやる気もなく、授業を聞く気もなく、教師を馬鹿にした態度をとります。
どの教師たちも「全力を尽くしている」と言いつつ、生徒たちの学力は小学生レベルだとして、成績を上げることを諦めていました。しかし、エスカランテ先生は「大切なのはやる気だ」と宣言し、リンゴを2つに割って2分の1を説明するところから始め、微分積分、そしてさらに難しい大学レベルの数学を生徒たちに教えたのです。
エスカランテ先生は他の教師のように、「果たして理解できるだろうか」と生徒たちの可能性を疑ってかかるのではなく、最初から「どうやって教えたらいいか」「どうすれば理解しやすいか」を考えました。可能性を高められることはもはや当然、というメンタルセットをもっていたのです。
彼が大切にしたモットーは、
①生徒たちを愛し、気にかける
②可能性や能力を認め、良いところは正当に評価する
③強制しない、選択を与える
④楽しみの中で一緒に学ぶ
というものでした。
すると、生徒たちも徐々に彼を-信頼するようになり、心を開いて一緒に頑張るようになりました。その結果、生徒たちの数学の成績は全米トップレベルまで上がったのです。さらには「大学単位認定テスト」の合格者数が、全米の公立学校の中で数々のエリート校に交ざり、なんと第4位に輝くという功績も残しました。
このテストは、アメリカの高校卒業生のたった4%しか合格できず、急に合格者が増えたために学校は調査を受けたほどだそうです。
子どもの可能性を信じるのは親の役割
エスカランテ先生は、「絶対に諦めてはいけない。大切なのは自分を信じること。信じることができれば、あとは簡単なこと」という信念を生徒たちに教えました。
そして、生徒たちは大学に行くことで、医師や弁護士などの資格を得て貧困層から抜け出し、自分たちの人生をまったく違うものにつくり変えることができました。この話は、日本より格差がかなり大きいアメリカの中でさえ、最低ランクの学カの生徒でも、努カによって最高ランクまで成績を上げることができる、という事実を証明しています。
逆に、エスカランテ先生のような人がもしいなかったら、潜在能カを認めてもらえないせいで可能性を潰してしまう生徒がたくさんいた、とも言えます。実際、この学校の話聞いた私は、自分が「東大に行く」と言ったとき、先生たちに「無理だ」と反対されたことを思い出しました。先生は、たくさんの受験生を見てきたという点では受験の経験値が上ですから、彼らに自分の能力を見限られ、否定されるのは非常にショックなことです。
私は「自分は自分」と割り切れましたが、可能性を否定されて自信をなくし、希望とは異なる大学に変更した生徒もいるでしょう。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」で有名なプロボクサーのモハメド・アリの言葉に、「不可能とは誰かに決めつけられることではない」というものがあります。これは、不可能とは単なる先入観であって、失敗を恐れて難しいことに挑戦しない人が現状に甘んじるための言い訳として使う言葉であることを意味しています。
もし勉強やスポーツなどに行き詰まっている子どもがいたら、人聞は成長するもので、今もっている能力は伸ばせるのだというメンタルセットへ導いてあげれば、将来の可能性ははるかに広がっていくのではないでしょうか。
せめて親だけでも、エスカランテ先生が大切にしていた4つのモットーで、子どもを信じ、能力を潰さずに伸ばしてあげたいものです。
杉山 奈津子
作家、イラストレーター