本連載は、一代で11の医療・介護施設の開業に成功した医師の軌跡から、事業拡大の極意を見ていきます。

学校の教員の家系に生まれ育った筆者

私が千葉大学医学部から独立し、千葉県東金市の東葉クリニックを開業したのが1991(平成3)年11月11日のことです。それから26年。現在、「明るく生きる」を命名の由来とした医療法人社団「明生会」グループとして、医療・介護を合わせて14施設を運営しています。東京五輪を過ぎた翌年にはもう30周年を迎えます。

 

東京の下町にある墨田川高校を卒業してから、一浪を経て千葉大学医学部に入学したのは、1965(昭和40)年のことです。出身校だけを見ると東京の人間だと思われがちなのですが、実は東京はおろか関東出身でもありません。

 

私の出身ははるか南の鹿児島県奄美大島名瀬市(現奄美市)です。生まれが1945(昭和20)年4月なので、太平洋戦争が終わりを迎える少し前。沖縄では国内最大の戦いともいえる米軍上陸作戦が繰り広げられ、広島にも長崎にもまだ原爆が落ちていなかった時期です。

 

父方はもともと学校の教員の家系で、父のほか兄妹や親戚筋も教員で師範学校卒という環境でした。父の実家はもっと南の沖永良部島。いまや訪問したい島ベストスリーに入っているともいわれる風光明媚な島です。

 

一方の母は鹿児島市生まれで、沖永良部島まで嫁いで来ました。鹿児島市とはいえ、沖永良部島から見れば「大都会」です。思えば、よくもあんな田舎に嫁いだものです。何度か子ども時代に母の里帰りで連れられたことがありますが、鹿児島市でさえ高いビルが立ち並び、何でもある夢のような街だと思っていました。

 

ところが戦争の最中、奄美で生まれた私はしばらくしてから父母と共に沖永良部島に帰島しました。戦後、荒れ果てた日本で教職はままならず、私が3歳の頃両親が大阪へメリヤス売りの商売に出て行ったため、そのまま沖永良部島で育ちました。

学校の成績は小中ともに常にトップ

大阪で商売を始めた両親は、その後、米軍に接収された沖縄へも渡るのですが、教員一族で商売経験のまったくない父母の仕事は当然うまくいかず、戦後、私が小学校6年の時に沖永良部島に戻ってきて、教員に復帰しました。父は、中学校で理科と数学教員でした。

 

私はといえば、中学まで沖永良部島の学校に通っていました。島民はそんなに多くありませんでしたから、学校の成績は小中ともに常にトップ。2位に落ちたことなどありません。思えばこれがまさしく「井のなかの蛙」というものです。いまでは笑い話ですが、自分のことを「神童」だと勝手に思っていたりもしました。

 

思春期を迎えた私の心の中は、「東京へ行きたい」という思いで一杯でした。当時、映画やラジオのほか、雑誌も「平凡」や「明星」ぐらいしか情報源がなく、東京といえば全ての地が銀座だと思っていたほど、情報が少ない時代でした。若者たちが「銀ブラ」を楽しんでいた頃です。田舎者だった私には憧れの場所でした。

 

「あの華やかな銀座に行ってみたい」

 

私の東京への思いはつのる一方です。しかも父の妹で、私の叔母に当たるイセさんは、東京の松尾家という家に嫁いでいました。叔母が憧れの東京に住んでいるのです。沖永良部島にたまに帰省するたび、東京のことを尋ねるといろいろと教えてくれ、

 

「陽ちゃん、東京へいらっしゃいよ」

 

と、いつも私に語りかけていたのです。まだ子どもの私は「東京へ行くものだ」となぜか思い込んでいました。

ドクター・プレジデント

ドクター・プレジデント

田畑 陽一郎

幻冬舎メディアコンサルティング

医療者である開業医が突き当たる「経営」の壁。 経営者としてはまったくの“素人”からスタートした著者は、透析治療を事業の柱に据えて、卓越した経営センスで法人を成長させていく。 徹底的なマーケティング、2年目で多院展…

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