第2回印象派展で酷評された『陽光の中の裸婦』
そうして1874年、ついに仲間たちによる自前の展覧会(第1回印象派展)が開催されます。この展覧会は亡くなったバジールの悲願でもありました。モネは『印象・日の出』を含む12点を、ルノワールは『オペラ座の桟敷席』など7点を出品しました。
そして、1876年の第2回印象派展に、ルノワールが出品した15点の中の一つが『陽光の中の裸婦』です。
女性の素肌に落ちる木漏れ日を描いた『陽光の中の裸婦』は、とても印象派らしい作品です。しかし、批評家のアルヴェール・ヴォルフには「紫や緑の斑点が浮き出した腐敗しつつある肉の塊だ」とさんざんに酷評されました。
モネの項で紹介したカバネルの『パンドーラー』を見ればわかるように、この時代の常識では、女性の肌は一点の曇りもなく白く美しいものでした。木漏れ日や影によって肌の色が変化するという、新しい表現が受け入れられなかったのです。
バブル時代、ルノワールの代表作を日本人が落札
ルノワールはめげませんでした。そうして、1877年の第3回印象派展には代表作となる『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』を出品します。
この作品は日本で特に有名です。というのも、実は『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』には、パリのオルセー美術館に飾られた131㎝×175㎝の大きな作品とは別に、79㎝×113㎝の小さな作品があります。それを、バブル景気華やかな1990年5月17日に、日本人が7810万ドル(約120億円)で高額落札して大きな話題になったからです。
落札者は、当時、大昭和製紙会長だった齊藤了英氏で、その2日前にはゴッホの『医師ガシェの肖像』を絵画史上最高落札額となる8250万ドル(約125億円)で落札していました。
近代絵画の傑作を2点同時に日本人が史上最高額で落札して自国に持ち帰ったことは、西洋の美術業界に大きな衝撃を与えました。
その際、齊藤氏が軽口で「自分が死んだら、一緒に棺桶に入れてもらう」と発言したことも、文化遺産への敬意が足りないという激しい批判を巻き起こしました。
当時の日本企業の貿易黒字に対する反感も大きかったのでしょう。それまでの高額記録が1989年のピカソ『ピエレットの婚礼』で、約72億円でしたから、まさに桁違いの経済力を見せつけたわけです。
ルノワールがこの作品を二つのサイズで制作したのは、大きいサイズのキャンバスが屋外への持ち出しに適していないからでした。そのため、実際の舞踏場へは小さいサイズを持ち込んで絵を描き、それをもとにしてアトリエで大きな絵を描いたのです。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、モンマルトルにある庶民的なカフェです。自身も庶民であったルノワールの描く楽しげなダンス・シーンは、見る者を幸福にさせてくれます。木漏れ日の表現も秀逸で、印象主義時代のルノワールの大傑作です。
しかし、ルノワールが印象派展に自発的に参加をするのは1877年の第3回が最後になりました。メンバーの努力にもかかわらず、印象派展の評価が上がらなかったためです。裕福な実家を持たないルノワールは、生活のために絵を売る必要性を強く感じ、サロンへの出品を再開することにしました。