前回は、印象派の巨匠・ルノワールと同世代の画家・モネの作風の違いを紹介しました。今回は、裕福な画家・バジールと、モネ、ルノワールの交流について見ていきます。

モネとルノワールにあった、もう一つ共通点

前回の続きです。

 

ちなみに、モネとルノワールにはもう一つ共通点がありました。それは実家が裕福ではなかったことです。

 

今でもそうですが、アートの勉強をするのにはお金がかかります。また、画家として成功できるかどうかの保証もないため、明日の食事を心配しなければならない労働者階級には、画家になるなんて夢のまた夢だったのです。

 

そのため、当時の画家は実家が裕福な人ばかりです。マネの父は高級官僚で、セザンヌとドガの父は銀行家、シスレーの父は貿易商で、バジールの父も資産家。いずれも息子を援助する経済的余裕がありました。

 

しかし、モネの父は商店主、ルノワールの父は仕立職人でした。特にルノワールは7人兄弟ということもあり、13歳から磁器絵付け職人として働き始めています。ルノワールに比べればモネは裕福なほうでした。モネは画家になってから困窮しますが、それは浪費家だったからだといわれています。

 

職人として働き始めたルノワールですが、工業化の進展でだんだんと磁器の絵付けの仕事が少なくなります。しばらくは看板を描いたりして食いつなぎますが、絵が大好きだったルノワールは、そのうちに職業画家になりたいと考え始めます。そしてお金を貯めて20歳で美術学校に入学したのです。グレールの画塾でモネたちと出会ったのも、その頃のことです。

2人をに様々な援助をした、裕福な画家・バジール

ルノワールがサロンに初入選したのは1864年、23歳の時です。モネと同様に入選したり落選したりで、生活は決して楽ではありませんでした。そんなルノワールとモネを助けてくれたのが、裕福なバジールです。

 

地方出身のバジールはパリに住居とアトリエを借りていましたが、そのアトリエをルノワールとモネにも格安で使わせてくれました。絵のモデルも共有していましたし、1867年頃には住居も提供して、ルノワールとモネと共同生活をしていました。

 

当時、バジールの描いたアトリエの絵には、一緒に仕事をしていた仲間たちの姿が描かれています。描かれている人物には諸説ありますが、階段下で座っているのがルノワール、階段上が小説家のゾラ、真中の左からモネ、帽子を被ったマネ、背の高いバジール、右でピアノを弾いているのが音楽家のメートルだといわれています。

 

残念ながらバジールは、この1870年に起きた普仏戦争に自ら志願して、29歳の誕生日を目前に戦死してしまいます。同じく従軍したルノワールは無事で、モネは兵役を避けるためにロンドンに逃げて、そこで画商のデュラン=リュエルと知り合います。

 

こうして3人の青春の日々は終わりを告げます。後年、ルノワールは、バジールとモネと一緒に暮らした貧乏時代を振り返り「あんなに幸福だった時はほかになかった」と語っています。バジールが亡くなった後も、モネとルノワールの友情は続きました。

本連載は、2017年4月28日刊行の書籍『「値段」で読み解く魅惑のフランス近代絵画 』から抜粋したものです。最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

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髙橋 芳郎

幻冬舎メディアコンサルティング

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