鄧小平が打ち出した「改革開放政策」
中国の経済が発展しはじめたきっかけは、1978年の改革開放政策でした。これは鄧小平が打ち出した政策で、簡単にいえば、社会主義ではうまくいかないので、市場経済を取り入れるというものでした。鄧小平は「黒猫であれ白猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(白猫黒猫論)と述べ、資本主義であろうと社会主義であろうと国民が豊かになればそれでよい、と国民にわかりやすく語りかけました。
また、「平等だ、平等だといってみんなが自転車に乗っている社会と、多少の不平等があっても車に乗れる社会とどちらがいいか」とも問いかけます。さらに「人によって先に豊かになる場合があるのは仕方がない。最後にみんなが豊かになればよい」(先富論)とも述べ、一人あたりGNPを増やすための一人っ子政策を同時に展開しました。
鄧小平の改革開放政策は大成功をおさめました。いままで、私的利潤の追求を禁止されていた中国の人々は、自由に儲けてよいというインセンティブを与えられると、馬車馬のように働きはじめます。その結果、一人あたりGDPは1980年の313ドルから、2015年には約8100ドルに増加しました。一人あたりGDPはまだ日本の4分の1程度ですが、人口が多いのでGDPで比較すると、2010年に日本を追い抜き世界第2位となりました。
[図表]中国のGDPの推移
経済自由化に伴い、人々は政治的な自由も求めたが…
改革開放という経済の自由化が進むと、やがて人々は政府に政治的自由を求めはじめました。その声が爆発したのが1989年の天安門事件でした。学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場に集まり、警察や軍と衝突したのです。
これに対して鄧小平は断固として民主化を拒否し、武力でデモ隊を鎮圧してしまいます。経済の自由は認めるが、共産党の一党支配は絶対に崩さないという姿勢を貫いたのです。
当時、鄧小平は「20万人ぐらいの血の犠牲はかまわない。中国では100万人といえども小さな数にすぎない」「中国に西欧的民主主義を持ち込めば、国内は混乱し、難民が周辺地域に何億人も流出するだろう」と述べたと伝えられています。この事件以降、中国の人々は政治に関しては沈黙するようになってしまいました。