試行錯誤の先にある「喜び」を求める数学者たち
数学マニアの間で有名な「フェルマーの定理」は、17世紀に数学者フェルマーが、この定理を公表してから、その正しさが証明されるまでに実に360年かかりました。この間には世界中の何千人もの数学者が、ひたすら定理の証明に挑戦し続けたのです。
数学者たちにとっては、解けることがわかっている問題を、問題とは呼ばないようです。そんな問題は、考える価値がないと相手にさえされません。解けるかどうかがわからない、つまりこれまでに誰も解いたことのない問題を考えることにのみ意義がある。では、解けるか解けないかさえわからないような問題をどうやって解くのか。ひたすら考え続けるのです。
解けない問題を考え続けることは苦しくないのでしょうか。もちろん苦しいに決まっています。けれども楽しくもあるのです。ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返すことは、もしかすると人間の根源的な喜びにつながるのかもしれません。だから考え続ける。アインシュタインが7年間考え続けて相対性理論をまとめたように。解けた時には、とてつもない喜びが待っている。数学者たちは、この喜びを知っているから、考え続けることができるのでしょう。
子どもは「大人の想像を超えた力」を秘めている
私の塾で、思考の授業(算数、数学の問題を用いて考える訓練をする授業のことです)に臨む子どもたちも同じです。数学者たちと一つだけ異なるのは、授業で使う問題は、たとえどんな難問だとしても、必ず答えがあるということ。考え続けていれば、いつかはきっと解ける問題です。
こうした問題に、小学校4年生のクラスから1問に1時間近くかけて取り組んでいます。4年生のクラスでは、途中で手が止まり、目の輝きが失われることもあります。そんな時には講師が「気分を変えて、もう一度考えよう。考え続けていれば、すごいことになるぞ。ノーベル賞だって夢じゃないぞ」と励まします。それでも盛り上がってこない時には、ほんの少しだけヒントを出したりもします。
ところが、こうした授業を続けてきた子どもたちが6年生になると、講師が何もしなくとも、みんな集中して考えるようになります。考える訓練を続けていると、本当に考えられるようになるのです。だから、問題を選ぶ我々も細心の注意が必要です。クラスの中で最もできる子どもが、1時間考えて解けないような問題を選ばなければならないからです。誰か一人でも、答えにたどり着いた時点で教室の緊張感が解けてしまいます。
もしも、問題を渡した瞬間に、何人かの子どもがすぐに解き始めるような時は、明らかに問題の選択ミスです。1時間みんなが考えて、誰も解けなかった。そんな問題が理想的なのです。このレベルの問題を出していると、授業時間内に誰も解けないことがよくあります。解けなかったからといって、問題の解答や解説を子どもたちに配布することはありません。そんなものを見ても、何の意味もないからです。
ただ、持ち帰った問題を家で考え続ける子どもがいます。同じ問題を次の授業でやらないことはわかっていても考えるのです。それは、考え続けることが楽しいからです。1週間かけて考えて、解けたと言って報告に来る子どもがいます。その満面の笑顔を見るたびに、考えることの大切さを改めて教わるような気持ちになります。
実際、子どもたちが秘めている力は、我々大人が想像するレベルをはるかに超えています。みんな、頭を使った分だけ確実に賢くなっていくのです。生まれついての頭の良し悪しなど、ほとんど関係ありません。これが半世紀にわたって子どもたちを見てきた私の結論です。
過去50年の間に「天才的」と呼ぶにふさわしい子どもが、二人だけいました。けれども、残りの何千人かは最初から天才だったわけではありません。それでも卒業生のほとんどが、それなりに頭を使えるようになっている。学校の成績が上がり、にも関わらずトータルの勉強時間は減る。考える力がつけば、勉強することが楽しくなる。もちろん受験でも圧倒的に有利になる。考えることの効果は、どれほど強調しても言い過ぎにはならないと確信します。