「まだやれる」60歳で踏み出した第二のキャリア
都内で暮らす一郎さん(仮名)は、60歳で長年勤めた会社を退職しました。退職金とそれまでの貯蓄を合わせると、およそ8,000万円。住宅ローンはすでに完済しており、経済的には安定した状態でした。
「このまま何もしないのはもったいないと思ったんです」
会社員時代に培った人脈や経験を活かし、一郎さんは小規模なコンサルティング業を立ち上げました。自宅の一室を事務所にし、以前の取引先から仕事を受ける形でスタートします。
最初の数ヵ月は順調でした。以前から関係のあった企業から案件が入り、収入も一定程度確保できていました。
「思ったよりスムーズにいきました。これなら続けられると思いました」
妻の直子さん(仮名・59歳)も、当初は応援していたといいます。子どもたちはすでに独立し、夫婦二人の生活に戻っていました。
「好きなことをやるのはいいことだと思っていました」
しかし、徐々に生活のリズムが変わっていきます。仕事のための電話や打ち合わせは昼夜を問わず入り、自宅にいる時間が長くなったことで、家の中での緊張感も増していきました。
総務省『家計調査(2025年)』によると、60代後半以降の夫婦のみ無職世帯の消費支出は月26万円前後とされています。一郎さんの場合、収入はあるものの、事業に関わる支出や不規則な収入により、家計の見通しは不安定でした。
「会社員のときのような安定感はありませんでした」
それでも一郎さんは、「もう少し続ければ軌道に乗る」と考え、事業を続けていきました。
変化が表面化したのは、起業から2年ほど経った頃でした。直子さんは次第に、家での生活にストレスを感じるようになっていました。
「常に誰かが仕事をしている空間にいるのが、思った以上に負担でした」
もともと家事は直子さんが担っていましたが、一郎さんが家にいる時間が増えたことで、食事や生活リズムも影響を受けるようになります。
「昼も夜も仕事の都合で時間がずれるんです。食事のタイミングも合わなくなりました」
一方で一郎さんは、自分の変化にあまり気づいていませんでした。
「家にいる時間が増えただけで、何か迷惑をかけているとは思っていませんでした」
ある日の夕食時、直子さんがこう言ったといいます。
「正直、家にいるのに家にいないみたいで落ち着かない」
一郎さんは戸惑いました。
「仕事をしているだけなのに、と思いました」
そのすれ違いは解消されることなく、少しずつ積み重なっていきます。最終的に、直子さんは一時的に別居することを選びました。突然の出来事に、一郎さんは強い喪失感を覚えたといいます。
「まさかこうなるとは思っていませんでした」
