「今日の夕飯は?」そのひと言で切れた糸
浩一さんが戻ってきてから3週間ほどたった平日の夕方。
その日、由美子さんは午前中から体が重く、午後も気分がすぐれなかったといいます。最低限の家事だけ済ませて、少し横になっていたところ、夕方に浩一さんが帰宅しました。そして、何気ない口調でこう言ったそうです。
「今日の夕飯は?」
由美子さんはその瞬間、自分でも驚くほど強い拒絶感が湧いたといいます。
「頭の中で何かが切れた感じでした。“なんで私が、当然のようにそれを考えている前提なの?”と思ってしまって」
浩一さんに悪意はなかったのでしょう。単に、夕食について尋ねただけです。けれど由美子さんにとっては、そのひと言が、長年積み重ねてきた役割の固定を再び突きつけるものに聞こえたのです。
「赴任中は、自分のことは自分でやっていたはずなのに、家に戻った瞬間に“世話をされる側”に戻るんだ、と」
その夜、由美子さんは初めて「もう耐えられない」と口にしました。浩一さんは最初、意味が分からなかったそうです。自分は怒鳴ったわけでもないし、暴れたわけでもない。ただ夕飯のことを聞いただけだ、と。
「でも私にとっては、そのひと言の前にもうたくさん積み重なっていたんです。食事だけではなく、家にいる間ずっと“誰かのために動く側”に戻される感じがしていました」
厚生労働省『2024(令和6)年 国民生活基礎調査の概況』では、65歳以上の高齢者世帯でも「生活が苦しい」と感じている割合は55.8%です。お金の問題だけでなく、家族の役割や将来不安が重なることで、気持ちに余裕を失うケースは珍しくありません。
さらに、由美子さんの不満は家計感覚のずれにも及んでいました。浩一さんは退職金2,400万円があることで、どこか安心していたといいます。旅行や外食の話も増え、「これからは楽しもう」という姿勢を見せていました。けれど由美子さんは、年金生活が始まる前の段階で、今後の医療費や住まいの修繕費が気になって仕方ありませんでした。
「私はずっと、“これから減っていくお金”として見ていました。でも夫は、“今まで頑張った分を使ってもいいお金”として見ていた。そこも、かなり大きな違いでした」
その後、夫婦は何度か話し合いを重ねました。家事は完全に分担すること、食事は“作ってもらう前提”で待たないこと、日中はそれぞれの時間を持つこと。由美子さんは「夫婦でいること」と「生活のすべてを一緒にすること」は別だと伝えたそうです。
「我慢してうまくやる、という年齢ではもうないんだと思います。これから先の時間のほうが短いなら、余計に無理はできません」
退職や単身赴任の終了は、家族にとって“再スタート”のように見えることがあります。けれど実際には、それまで別々に回っていた生活を、もう一度すり合わせる作業の始まりでもあります。
老後の夫婦関係は、お金や時間が増えれば自然にうまくいくものではありません。長く離れていたからこそ、戻ったあとに必要なのは“元通り”ではなく、新しい距離感を作り直すことなのかもしれません。
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