「これからは夫婦でゆっくり」のはずだった
由美子さん(仮名・58歳)は、夫の浩一さん(仮名・60歳)が単身赴任を終えて自宅に戻ってきた日のことをはっきり覚えています。浩一さんは大手メーカーに勤め、長年地方勤務を続けてきました。退職金は2,400万円。住宅ローンもほぼ終わり、「これからは二人で穏やかに暮らそう」と話していたといいます。
「赴任中は、週末に帰ってくることはあっても、基本は別々の生活でした。だから、毎日一緒にいる暮らしがどういうものか、正直あまり想像できていませんでした」
由美子さんはこれまで、子育てと家事を一手に担ってきました。子どもたちはすでに独立し、ここ数年はようやく自分のペースで暮らせるようになっていたそうです。午前中に家事を片づけ、午後は近所の友人とお茶をしたり、図書館に行ったりする。派手ではないものの、静かな自由を取り戻していたといいます。
一方、浩一さんは「家に戻れば、妻がいて、食事が出てくる」という感覚をどこか当然のものとして持っていたようでした。
「悪い人ではないんです。でも生活が再び一緒に始まることの意味を、あまり考えていなかったのだと思います」
最初の数日は、久しぶりの同居にぎこちなさがありつつも、大きな衝突はありませんでした。ところが1週間も経たないうちに、由美子さんは妙な息苦しさを覚えるようになります。
朝起きる時間、テレビの音量、洗濯物の出し方、昼食の有無。浩一さんが家にいることで、それまで一人で回していた生活のリズムが崩れ始めたのです。
「“今日の昼は何?”とか、“コーヒーないの?”とか、小さなことが増えるんです。ひとつひとつは大したことがなくても、ずっと続くと疲れてしまって」
由美子さんが最も引っかかったのは、浩一さんに“自分の時間を戻ってきた”感覚がある一方で、自分には“失った時間がある”という感覚があったことでした。
「夫は、単身赴任が終わってやっと家に戻れた、と思っていたのかもしれません。でも私は、せっかく整っていた暮らしに、また誰かのペースが入ってきたと感じていました」
