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かつてアルコール消費を抑制しようとした禁酒法は、社会的影響のみならず、経済にも多大な波紋を広げました。販売の禁止が消費の抑制につながるという理論のもとに制定されたこの法律は、表向きには社会の健全化を目指したものの、その背後には自由と規制のバランスに関する深い議論が存在します。経済活動における個人の権利と国家の介入の限界を考えるうえで、禁酒法が残した教訓とは何だったのでしょうか? 本記事では、19世紀で最も影響力のあったイギリスの哲学者、経済思想家であるジョン・スチュアート・ミルの「自由論」を翻訳した書籍『すらすら読める新訳 自由論』(著:ジョン・スチュアート・ミル 、その他:成田悠輔 、翻訳:芝瑞紀 、出版社:サンマーク出版)より一部抜粋・編集し、禁酒法を通じて浮かび上がる自由と規制の交錯を探ります。

「社会的権利の侵害」という恐ろしい概念

彼は「社会的権利」を次のように定義した。

 

「私の社会的権利を侵害するものがあるとすれば、酒の販売がまさにそれにあたる。酒はいつでも社会に混乱をもたらし、その混乱を助長する。それによって、私の最も重要な権利である“安全”を損なっている。酒の販売は、利益を得るために貧困層を生み出し、その貧困層を支援するために税金を支払う必要を生じさせる。それによって、私の“平等”という権利を損なっている。

 

酒のせいで、私はどこに行っても危険に取り囲まれる。また、酒は社会を弱らせて堕落させるので、他者と支援し合ったり、交流したりするのがむずかしくなる。つまり、私の“道徳と知性を自由に成長させる権利”までもが損なわれている」

 

「社会的権利」というものが、これほど大胆な言葉で定義されたのは初めてだろう。幹事の主張は、要するにこういうことだ。

 

「すべての個人は社会的権利をもっている。それは、自分が義務だと思うことをあらゆる面で完璧に果たすよう、自分以外の全員に要求する権利である」

 

そして、この義務を少しでも怠った人にはこう言うのだ。

 

「あなたは私の社会的権利を侵害している。だから、そのような行為をなくすために、法律を制定する権利が私にはある」

 

このような常識外れの原則は、自由への干渉そのものよりはるかに危険だ。この原則に従えば、自由を侵害する行為はすべて正当化される。もはや、人はどんな自由も主張できなくなってしまう。唯一の例外は、心のなかで意見をもつ自由ぐらいだろう。しかし、その意見を誰かに話すことは許されない。もし、私にとって有害な意見を誰かが口にすれば、その行為は、私の“社会的権利”のすべてを侵害することだと言えるからだ。

 

連合の幹事の考え方に従えば、人は他者に対して、完璧な道徳心、完璧な知性、さらには完璧な肉体まで求める権利があることになる。そのうえ、何をもって「完璧」とするかは、要求する側の基準にもとづいて決められるのだ。

 

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すらすら読める新訳 自由論

すらすら読める新訳 自由論

著者:ジョン・スチュアート・ミル まえがき:成田悠輔 訳者:芝 瑞紀

サンマーク出版

「自由は狂気と表裏一体だ」成田悠輔氏が「まえがき」を執筆。 165年を経た現代SNS社会にも通用する必読の名著! 「この本は『社会は個人に対し、どのような権力を、どの程度まで行使できるか?』について書いたものだ」と…

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