5月にスペイン編から始まった本連載は、ヨーロッパ編、中国編と続き、そして今回でようやく日本編にたどり着きました。待ちに待った日本の夏休み。皆さんの旅行先はいかがでしたでしょうか。このシリーズも待ちに待った日本の登場です。今回は日本の観光事情をお伝えして、連載を締めくくりたいと思います。
「お参り」から始まった日本庶民の旅
日本において、自らの意思に基づく「旅」は信仰上の動機から始まったと考えられます。天皇その他皇族による熊野御幸は古くからみられましたが、除災招福を求めての強い信仰による庶民による熊野詣は、平安時代末期頃から始まり、鎌倉時代になって地方の武士たちが配下の住民を連れていくようになって広がりを見せ、その後民衆が独自に熊野詣を行うようになり、「蟻の熊野詣」といわれるほどに多くの人々が熊野三山を目指すようになりました。ただ、室町時代に入ると、熊野詣から次第に伊勢参宮へと移っていきます。
平安時代の伊勢神宮は、天皇のほかは私的な幣帛(へいはく)を捧げ、祈祷することを禁じた「私幣禁断」をとっていましたが、鎌倉時代に入り、源頼朝が御厨(みくりや)や御園(みその)を寄進して以降、諸国の武士がこれに倣ったほか、僧侶の参宮も増加しました。さらに、伊勢神宮の権禰宜(ごんねぎ)が各地に御師として派遣されるようになって、庶民による伊勢信仰が発達し、私祈祷も増えていきました。
南北朝時代を経て室町時代になりますと、伊勢信仰が庶民の間に広く根をおろします。室町時代初期には、足利義満以降の歴代の将軍が幣帛を奉って参宮するなど、参宮の中心は武士でしたが、16世紀半ばに伊勢国内に多数設置されていた関所が撤廃されると、畿内をはじめ諸国の庶民が参宮するようになりました。
その後織田信長によって関所は廃止されましたが、豊臣秀吉によって山田奉行が設置され、さらに太閤検地が実施されたことで、庶民の移動は制限され、旅も制約されていくことになりました。江戸時代に入ると、庶民による伊勢参宮は「お伊勢参り」として盛んに行われました。伊勢神宮は国家最高神である天照大御神を祀り、また国民の総民神と言われるようになったものですから、ここに参詣することは庶民のあこがれ、ひいては義務であるという観念が一段と高まり、普遍化していったのでしょう。さらに、1802年から1809年にかけて出版された十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が広まっていったことも、お伊勢参りの人気に拍車をかけたともいえます。
移動制限があるなか「ちゃっかり旅を楽しんだ」江戸時代の庶民
江戸時代には、ご承知のように、幕府によって「参勤交代」が制度化され、大名その他諸藩の要人の定期的な往来が繰り返されるようになったことから、五街道をはじめとした道路や宿場の整備が急速に進みました。それとともに、治安が向上し、貨幣経済も発達していったことなど、旅の条件が整っていき、人々の旅を次第に容易なものにしていきました。
そして、より基本的な事項として、その速度はゆるやかであるとしても、手工業の発達や商品経済の進展に伴う仕事のための旅が増大し、さらに生活水準の向上によって、庶民層の中には時間的・金銭的に旅が可能な人々が増えたことが、旅の量的拡大へつながっていきました。そして、江戸時代の中頃には、すでに庶民による国内旅行はかなり活発になったといえるでしょう。
江戸時代の初期には、旅の本来の目的は楽しみとしたものではなかったと考えられます。というのも、当時の旅には「手形」が必要であり、手形を改める関所が要所に設けられていたこととも関係があります。
各藩では、民衆の物見遊山や他国旅行をできるだけ抑制しましたが、医療と信仰を目的とした旅行については、制限することができませんでした。この医療を目的とした旅行が「湯治」であり、信仰を目的とした旅行が「社寺参詣」になります。
裏を返せば、これらの目的であれば旅行が認められたことから、次第にこれらを建て前として移動の道中も楽しむ「旅」の要素が強くなっていくようになりました。例えば「お伊勢参り」の目的は本来参宮のはずですが、「伊勢参り 大神宮へも ちょっと寄り」の川柳にみられるように、あこがれや義務としてのお参りよりも、庶民の本音はその道中を楽しむことが主な目的であったのかもしれません。
庶民が社寺参詣の旅ができるようなった一つの大きな要因として、「講」制度の発達があげられます。これは、信仰を同じくする者同士が資金を出し合い、輪番で参詣に参加できるようにする制度です。それによって、参詣の目的を達成するために、各自で用意するのに比べ、一度に多額の費用を負担しなくて済んだのです。こうして江戸時代には、伊勢参宮を目的とした伊勢講以外にも、金刀比羅宮や善光寺、出羽三山などへの参拝を目的とした講による旅が活発に行われるようになりました。
もちろん、遠距離の参拝のみを目的とした講ばかりではなく、東京近郊でいえば、成田山新勝寺への参拝を目的とする成田講(不動講)や富士山浅間神社の富士講、川崎大師平間寺の大師講、高尾山薬王院の高尾講、雨降山大山寺の大山講など、多くの講が組織されました。
旅の始まりが講を結んで行われた団体旅行であったことは、日本の旅、ひいては旅行の歴史を見る上で重要な点であると考えられます。
近代に入り、「旅」は「旅行」へと徐々に変化
明治になりますと、旅は徐々に活発かつ一般的なものとなっていきました。まず、関所と士農工商の身分制度が廃止され、武士であった者を含む庶民が土地を離れることが自由にできるようになりました。そして「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と謡われた大井川など、江戸時代には架橋が禁止され、あるいは技術的・財政的に不可能とされていた河川に橋がかけられるようになり、これまで徒歩渡し、馬渡しと舟渡しに限られ、大雨等による増水時には川留めで数日待たされることもあった渡河が短時間でできるようになりました。こうして、庶民にとっての旅の基本的な条件である移動の自由度が格段に高まっていきました。
また、1872年に新橋・横浜間で営業を始めた鉄道は、移動時間を飛躍的に短縮しました。その後、鉄道は着実に路線を拡大し、1889年には現在の東海道線が開通しました。旅館も鉄道の普及とともに着実に増加し、交通と宿泊という2つの条件が徐々に整備されていきました。
鉄道の普及で旅が活性化するための条件が向上し、今まではなかなか行けなかった場所への旅が容易になり、国民の文化へとつながっていったのでしょう。紀行文や旅を扱った文学を生むことにもなりました。そして、こうした形での旅に関する情報が普及したことで、大衆の旅への意欲を刺激し、旅の量的拡大を推進したと考えられます。
一方で、移動時間の短縮化は、道中を楽しむ時間がなくなることも意味します。近代に入り、それまで主流だった目的地に到着するまでの時間や目的地から自宅に戻るまでの時間も主な楽しみとされる「旅」は、徐々に目的地での時間を楽しむことが中心の「旅行」へ変化していくこととなりました。
「日本の旅行」に見られる特徴
【特徴:団体旅行】
わが国の参詣は、「講」という相互扶助組織に支えられた団体旅行がその基本としてありました。日本独自の旅行形態とされる修学旅行は、見聞を広め、心身を鍛錬することを目的として誕生したものですが、これはいうまでもなく学校を単位とした団体旅行です。また、すでに明治の中頃から見られた「廻游列車(日光などの観光地まで往復する貸切列車)」は、地域別に募集した団体から構成されたものでした。さらに、1930年に当時の鉄道省の後援で実施された「月掛旅行」の仕組みは「講」の昭和版ともいうべきもので、旅行のために積立を行ったものでした。このことは、日本の旅行の歴史において、常に団体旅行と密接に関わってきました。
また、日本では旅行代理業が観光の大衆化に大きく寄与したといったことが見られないということも、もともと団体として存在している人々(講、学校、会社など)が、その団体を単位として旅行をしたという歴史的事情によるものと考えられます。つまり、参加する団体の側にはすでに案内役や幹事がおり、手配等についてもある程度まで自らでとり行うことができたからです。したがって、一般大衆が個々人の単位で、楽しみのための旅行に参加することが盛んになる時代までは、日本では旅行代理業に対するニーズが西欧に比べて少なかったと考えています。
明治、大正、そして昭和の日本で1960年代後半以降急速に大衆化した海外旅行においてもまた、団体旅行が中心となっていきました。ただ昔と違うのは、新しい時代の団体旅行、特に海外旅行においては、旅行会社が主催者となって参加者を広く募集するという形が取られるようになっていきました。この点にそれまでの団体旅行との大きな性格の違いが見られます。
【特徴:国内旅行中心】
西欧の近代観光史において海外旅行が大きな位置を占めているのに対して、日本の場合はほとんどが国内旅行である点が大きな違いとなっています。社会的および地理的な条件の違いが大きいと言えるでしょう。
日本の場合、明治期以前に外国へ旅行することそのものが禁止されており、明治になっても海外旅行はごく一部の人たちによる視察や留学目的に限られていました。また、諸外国までの距離の長さも、当時の交通機関からすれば大きな障壁でした。近年の交通機関の急激な発達、特に飛行機の登場と性能の向上が、日本の海外旅行のウエイトを急速に高めることになりました。
近年における「日本の観光」の動向
●訪日外国人旅行
2022年の訪日外国人旅行者数は、6月の外国人観光客の受入再開後、10月の入国者数の上限撤廃、個人旅行の解禁、ビザなし渡航の解禁等の水際措置の大幅緩和等により、大きく増加しました。同年12月には2019年同月比で54.2%まで回復し、年間では約383万人(2019年比88.0%減)となりました。2023年6月は、2022年10月以降単月では最多の207.3万人となり、2019年同月比で28.0%減まで回復しました。地域別でみますと、韓国が54.5万人(2019年比10.9%減)、台湾が38.9万人(同15.6%減)、米国が22.7万人(同29.2%増)となっています。いずれの市場も2019年比で伸び率が改善しています。
2022年の年間訪日外国人旅行消費額(試算値)は8,987億円(2019年比81.3%減)でした。同年10月の水際措置の大幅緩和以降、10-12月期は2019年同期比で約5割に回復し、2023年1-3月期は1兆146億円(2019年同期比11.9%減)、同年4-6月期は1兆2,052億円(2019年同期比4.9%減)まで回復したと推計されています。
国籍・地域別では、2023年4-6月期は、台湾が1,739億円(構成比14.4%)と最も大きく、次いで米国1,733億円(同14.4%)、中国1,515億円(同12.6%)の順となっています。同年4-6月期の訪日外国人(一般客)1人当たり旅行支出は20.5万円と推計されています。国籍・地域別でみますと、英国が35.9万円、中国が33.8万円、オーストラリアが33.7万円となっています。
●日本人の海外旅行
2022年の年間出国日本人数は、277万人(2019年比86.2%減)でした。同年12月には2019年同月比で約25%、2023年6月には約46%まで回復しました。
●日本人の国内旅行
2022年3月のまん延防止等重点措置の全面解除や10月に開始した全国旅行支援による国内旅行需要の増加等が寄与し、日本人延べ宿泊者数は10月にはコロナ前水準を超える回復傾向となり、2022年の日本人の国内宿泊旅行延べ人数は2億3,247万人(2019年比25.4%減)となりました。日帰り旅行延べ人数は1億8,539万人(同比32.7%減)でした。
2022年の日本人国内旅行消費額は17.2兆円(2019年比21.6%減)で、このうち宿泊旅行の国内旅行消費額は13.8兆円(同比19.8%減)、日帰り旅行の国内旅行消費額は3.4兆円(同比28.0%減)となりました。
本連載の最後に
今回が最終回となります。いかがでしたでしょうか。最後までお付き合いいただきありがとうございました。楽しんで読んでいただけたなら幸いです。中国から日本への団体旅行が解禁されたことも、日本では夏の終わりのニュースです。しかし約3年半ぶりに中国人団体旅行が始まるということですから、世界では、まだまだ夏は終わらないのでしょう。
どの国・地域も旅行者が確実に戻っています。コロナ禍で旅行が制限された後だけに、旅行需要の力強い戻りがはっきりと数字として表れています。
こうして各国の旅行の歴史を振り返ってみると、また旅行の魅力が再確認できたのではないでしょうか。私自身もまた旅行に行きたくなりました。今年の夏休みには、コロナ禍前によく訪れていた馴染みの温泉宿に行こうと思っています。
(参考文献)前田勇著『新現代観光総論』(学文社)
(データ出所)観光庁、日本政府観光局
中川 則彦
生保、信託銀行、外資系運用機関、公的年金において、30年以上にわたり資産運用業務に従事。1995年より、株式ファンドマネージャーとして年金基金や投資信託等の運用に携わる。市場サイクル分析と個別企業の競争優位分析を駆使して、成長株を割安なときに仕込むGARP(Growth At Reasonable Price)スタイルで、外国株式運用を行う。
慶応義塾大学経済学部卒業、マンチェスター・ビジネス・スクールMBAファイナンス修了、CFA協会認定証券アナリスト。「世界ツーリズム株式ファンド」を運用。