名編集長からの強烈な指導
ドラッカーは若かりし頃、貿易会社で見習社員として働きながら、ハンブルグ大学に籍だけ置き、図書館とオペラ通いを満喫していました。
しかし、見習社員という身分には全く満足しておらず、フランクフルトにある米国系投資銀行を経て、有力夕刊紙のフランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーに採用され、海外記事と経済記事の担当編集者になりました。
この転職に合わせて、ハンブルグ大学からフランクフルト大学に転籍します。
ここで、ドラッカーはヨーロッパで既にその名を知られる名編集長ドンブロウスキーに出会います。ドラッカーはドンブロウスキーとの出会いを、小学校のときの担任であったエルザ先生以来の偉大な教師との出会いとなったと語っています。
指折りのリベラル派で鳴らしたドンブロウスキーの指導は徹底して厳しいものでした。
特に、ドンブロウスキーの部下指導は非常にユニークでした。年に2回、土曜の午後から翌日曜までの時間をかけて、半年間に書いた記事の総括会議を開いてドラッカーを含めた若い編集者の育成に力を注いだのです。
ドンブロウスキーは、まず、それぞれの優れた仕事から取り上げ、次に、一生懸命やった仕事を取り上げ、その次に、一生懸命やらなかった仕事を取り上げ、最後に、お粗末な仕事や失敗した仕事を取り上げて痛烈に批判しました。
その厳しい指摘を受けた者は、これからの半年間に「集中すべきことは何か」「改善すべきことは何か」「勉強すべきことは何か」についてドンブロウスキーと話し合いの時間を持ちました。
このドンブロウスキーの総括会議の進め方には、自己目標管理におけるフィードバック面談の考え方に極めて近い内容が含まれています。ドラッカーの自己目標管理の体系の洗練化に大きく貢献したはずです。
また、ドンブロウスキーからフィードバックの大切さを学んだドラッカーは自分の1年の過ごし方の中にもフィードバックを取り入れました。そして、毎年夏に約2週間の自由な時間をつくり、それまでの1年間の自身の仕事を内省することを最晩年まで続けました。
同僚に“嫉妬”で命を狙われ…
ドンブロウスキーの指導もあり、着実に力をつけたドラッカーは副編集長というポストを得ます。
そして、卒業したフランクフルト大学で博士号を取得して非常勤講師として働くようにもなったのです。ドラッカーのクラスには、将来の妻となるドリスさんも学生として授業を受けていました。
しかし、ヒトラー率いるナチスが政権を奪取し、ドラッカーの事実上の初作品となる本がナチスによって発禁処分となってしまいます。さらに、出席していた教授会にナチスの幹部が乱入し、ユダヤ人教授の解任を命じます。
さらには、かつての同僚がナチスに入党しユダヤ人のドラッカーの命を狙う動きを始めます。これは嫉妬心が原因といわれています。ドラッカーは危機をいち早く察知してドイツを脱出してイギリスのロンドンに命からがら移住します。
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