「歯なんて、1本くらいなくなっても大丈夫」?
歯は親知らずを含めれば成人で上下16本ずつ、計32本あります。「それだけあるなら1本くらいなくなっても、差しつかえないんじゃない?」と思われるかもしれません。それでは実際、歯が1本ない状態を放置したままにしていると、どういうことが起こるのか、典型的なパターンを紹介しましょう。
■隣の歯が倒れてくる(図表1)
歯がないまま放置していると、両隣の歯がそのスペースに移動してきます。倒れた歯の根元部分や隙間が空いた歯と歯の間には汚れがたまりむし歯や歯周病になってしまいます。またそのまま放置するとさらに奥の歯が倒れてきて、噛み合わせが徐々に崩れていきます。
■噛み合う歯が伸びてくる(図表2)
歯がないまま放置していると、噛み合う歯がそのスペースに伸びてきます。図表2のように、歯が伸びてきて下の歯に当たると顎全体がずれていきます。
■ほかの歯も次々とむし歯や歯周病になってしまう
たとえ抜けていなくても、むし歯を放置しているとその両隣の歯もやがてむし歯になり、さらにその両隣…と、どんどんむし歯の範囲が広がってしまいます。歯の土台が溶けていく歯周病も、1本だけというのはむしろまれといえます。
例えば、家の土台のどこか1ヵ所が腐り、その上の床が落ちてしまったとします。床は張り替えれば一見、事なきを得ますが、土台をそのままにしていれば腐った部分は経年とともにどんどん広がっていきます。そうすればやがて、土台全体が腐って家ごと崩れてしまう恐れが出てきます。同様に口の中全体の環境が悪いわけですから、ほかの歯がだめになっていくのは時間の問題です。
長い期間をかけて口の環境は変わっていきますから、「知らないうちに、いつの間にかこうなってしまった」と言う患者も多いのですが、治療を受けなければあっという間に状態は悪化していきます。それが歯科疾患の怖いところです。
歯科恐怖症の患者だと「下の歯が全滅」するケースも
歯科治療を極度に恐れ、さまざまな拒絶反応があらわれてしまう状態を「歯科恐怖症」といいます。
歯科恐怖症の人は、下の歯すべて、あるいは上顎の右側の歯が根こそぎなくなっていることも多いです。これはもともとはどこか1ヵ所だけ不具合があったのを放置していた結果といえます。
また過去に治療を受けたとしても、恐怖のためになかなか治療が進まず、歯科医が根負けして、完全に病巣を削り取り切れずに治療を終わらせてしまうケースもなくはありません。健康な人なら32本ある歯が、歯科恐怖症の人は若くても残っているのは半分以下、しかも残っていても半分溶けていたり、ぐらぐらしていたりなどで、結局ほとんど使い物にならないという人も少なくありません。
こうした状態を口腔崩壊といいます。文字どおり口の中を構成している歯がなくなり、口の役割を果たせない状態です。当然、生活にさまざまな支障が出てしまいます。
生きる基本、「噛む」ができなくなる
口腔崩壊で最も深刻なのが「噛めなくなること」です。
噛むことは食べるために必須のプロセスです。通常、人は1回の食事につき、600回は噛んでいるとされています。しっかり噛めなければ、飲み込むこともままなりません。
飲み込めたとしても消化吸収に時間がかかり、胃腸への負担が大きくなります。
「食べる」行為は、より専門的には摂食・嚥下といって、食べ物を口に入れて、噛んで、飲み込むという一連の作業が口の中で行われています。これがスムーズに行われるためには、歯や舌、顎など口の各部位が円滑に動くことが大事です。食べることは健康づくりの基本中の基本です。
いつものように食事をしていたら、昨日までなんともなかったのに、歯がしみた…そういったことは誰でも今までにたびたび経験していると思います。それまでは何も気にすることなく、当たり前のように食べたいものが食べられていたのに、たった1ヵ所でも痛みが出ると、途端に煩わしくなってしまうものです。
うまく噛めないために食べることが億劫になってしまえば、体に必要な栄養もとりにくくなってしまいます。
実際に口腔崩壊を起こしてしまっている人や、高齢で義歯が合わずうまく噛めない人は、よく噛まなければならないような野菜や肉類は敬遠しがちで、うどんやパンなど噛まずに飲み込みやすい食べ物に偏りがちです。これらは糖質が多いので肥満のもとにもなってしまいます。
よく噛む人、噛まない人で「これだけの差」がつく
しっかり噛むことは、単に食べものを体内に取り込むという目的を果たすだけでなく、実は全身の健康に大きな影響を及ぼすことが分かっています。子どもの頃「よく噛んで食べなさい」と家庭や学校で教えられた人も多く、よく噛んで食べると体に良いといわれています。
「卑弥呼の歯がいーぜ」という標語があります。これは日本咀嚼学会から提唱されているもので、噛むことの大切さが簡潔にまとめられています。
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●ひ:肥満予防
⇒ゆっくりよく噛んで食べることで、食べ過ぎを防ぎ、肥満防止につながります。
●み:味覚の発達
⇒よく噛むことで食材本来の味が分かるようになり味覚の発達を促します。
●こ:言葉の発音がはっきり
⇒口の周りの筋肉をよく使うことで、正しく明瞭な発音ができるようになるといわれています。
●の:脳
⇒噛む刺激で、脳が活性化されるといわれています。
●は:歯
⇒よく噛むと唾液がたくさん出ます。唾液には食べかすや細菌を洗い流す作用があり、むし歯や歯肉炎の予防にもつながります。
●が:(免疫力アップによる)がん予防
⇒唾液に含まれる酵素が食品の発がん性を抑え、がんの予防につながります。
●い:胃腸の快調
⇒よく噛むことで消化酵素の分泌が活発になり、消化を助けます。また食べ過ぎを防ぎます。
●ぜ:全身の体力向上
⇒噛む力がつくと集中力が高まり、力を発揮しやすくなります。
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卑弥呼がいたとされる弥生時代は、1回の食事で約4000回も噛んでいたとの研究報告があります。昔の食事は木の実などの硬い食材が多かったからと推察されています。
現代の食事は加工され、口どけやのどごしの良さが重視されるようになり、柔らかい食べ物が増えています。それに伴い噛む回数も減ってきているといわれています。
発音にも問題が歯が担っているのは、噛んだり飲み込んだりする機能だけではありません。発音とも密接な関係があります。
歯が抜けていて隙間があると、息漏れがするためはっきり発音できなくなります。特に、前歯を擦り合わせて息を飛ばすように発音するサ行は影響が大きく、タ行、ラ行も息が漏れやすいためにはっきり発音しにくくなります。
しゃべることに苦手意識をもつと、人とコミュニケーションをとることに対して後ろ向きになってしまうものです。こちらは一所懸命話しているのに、何度も聞き返されたり、何を話しているかよく分からないなどと言われてしまっては、人に何かを話す意欲も削がれてしまいます。精神面にとっても社会面にとってもマイナスです。
舌の動きも悪くなる
むし歯や歯周病が進むと舌の動きにも悪影響が生じます。痛みや不快感のために舌が歯や歯ぐきに触るのを避けるようになるためです。
舌は舌筋という筋肉でできています。腕や足の筋肉と同じように、使わなければどんどん弱ってしまいます。舌の力を舌圧といい、高齢になると加齢現象で弱くなっていきますが、むし歯が多いなどの理由で口の中の環境が悪い人は、若くてもこの舌圧が低くなりやすいのです。
舌は食べ物を口の中で唾液と混ぜ合わせながら飲み込みやすい大きさや形にして、のどへと送り込む役割を果たしています。動きが悪くなればそれがままならなくなり、必要な栄養がとれなくなってしまいます。
また滑舌という言葉が示すように、舌は発音においてたいへん重要な役割を果たしています。歯と歯に隙間ができてそこから息漏れがすることでも発音は悪くなりますが、舌の動きが悪くても、言葉がはっきり聞き取れない発音になってしまいます。
例えば会話していてタ行を発音するとき上の前歯の付け根に舌をつけてはじくようにしますが、それがうまくできなければはっきり発音できないので聞き取りにくくなってしまうことになるのです。
このように舌の機能が衰えれば、うまく飲み込めないとか、しゃべれないことになってしまい、生活に大きな支障が出てしまいます。
口の中が「悪い菌」の巣窟に
むし歯も歯周病も菌の感染で起こる感染症の一種です。口の中にはもともと口腔常在菌と呼ばれる数百種類もの菌がすんでいます。菌と聞くとなんだか悪いもの、汚いもののように受け取られがちですが、すべてがそうとは限らず、悪い菌もいる一方で、口腔の健康を保つように働く良い菌もいることが分かっています。また日和見菌と呼ばれる良くも悪くもなく、人体と共存している菌もたくさんあります。
健康な口であれば、悪い菌は存在はしていても良い菌や日和見菌より少ないためおとなしくしていますが、口の中の環境が悪くなると異常に増えて、体に悪さをするようになります。
むし歯や歯周病を起こす菌も悪い菌の一種です。それが口の中に残った食べかすなどをえさにどんどん増えていき歯や歯ぐきの細胞を傷つけ、正常な組織を壊していきます。むし歯が進むと歯が溶けていき、歯周病が進むと歯の土台となっている歯槽骨という組織が溶けていきます。
口腔崩壊に至っていなくても、むし歯や歯周病が多い人の口の中は、自分の体の中に悪い菌の巣窟をもっているようなものです。
山本 彰美
大阪中之島デンタルクリニック 院長