“知的労働”に実感が伴わない理由
僕の好きな漫画家、リンダ・バリーは言っている。「デジタル(Digital)時代に忘れちゃいけないのは、指(Digit)を使うことだ」と。手は1人1人が持っているデジタル・デバイスだ。使わない手はない。
僕もパソコンを愛用しているけれど、パソコンはモノづくりの感覚を奪う。ひたすらキーボードを打ち、マウスのボタンをクリックしている気分になる。“知的労働”に実感が伴わないのはそのせいだ。
イギリスのバンド「レディオヘッド」のアルバムのアートワークをすべて手がけているアーティストのスタンリー・ドンウッドは、パソコンによそよそしさを感じると言っている。間にガラスが1枚はさまるからだ。「自分の仕事に決して触れられないんだ̶̶ プリントアウトしないかぎりね」とドンウッドは言う。
パソコンの前に座っている人を見てごらん。じっとして、ぴくりとも動かない。科学的な調査なんてしなくてもわかるように(ほとんどされていないけれど)、1日中パソコンの前にじっと座っていたら、頭がおかしくなる。仕事もおかしくなる。だから、動かなきゃだめだ。頭だけじゃなく、身体で何かをつくっている感覚を得るために。
頭だけで作った作品なんて、ちっともよくない。一流のミュージシャンのショーを見てほしい。一流のリーダーのスピーチを見てほしい。その意味がわかるはずだ。
だから、身体を使って作品を作る方法を見つけることだ。人間の神経は一方通行じゃない。脳が身体に信号を送っているのと同じように、身体も脳に信号を送っている。英語には、「gothroughthemotions(形だけでもやる)」というフレーズがある。
まずは身体を動かすことで、脳にエンジンがかかる
創作について言えば、これは重要だ。ギターを弾く。会議テーブルのあちこちに付箋を貼る。粘土をこねる。まずは形だけでも身体を動かしてみれば、脳にエンジンがかかり、思考も冴えわたりはじめる。
大学時代、僕は文芸表現のワークショップに参加していた。そのワークショップでは、必ず決まったフォントで1行置きに文章を書かなくちゃいけなかった。そのせいか、ロクな作品が書けなかった。書くのが急につまらなくなった。
詩人のケイ・ライアンはこう言っている。「文芸表現などという科目がなかった昔の時代は、ワークショップといえば、たいがい地下にあって、縫い物をしたり、ハンマーを打ったり、ドリルを使ったり、かんなをかけたりするような場所だった」。
作家で大学教授のブライアン・カイトリーは、自身の担当するワークショップを、文字どおり“ワークショップ”風にしようとしている。つまり、道具や素材であふれかえる、明るくて風通しのよい部屋で、ほとんどの作業を実践形式で行うようにしているのだ。
その後、僕は仕事でまたアナログの道具を使うようになった。すると、創作が楽しくなり、作品の質も上がりはじめた。僕のデビュー作『NewspaperBlackout』では、なるべく手作業で仕事をしてみた。本の中で紹介している詩はみんな、新聞記事とマジックを使って作ったものだ。僕は五感のほとんどを使いながら作業した。新聞紙の手触り。単語が次々と塗りつぶされていく映像。マジックの「キュキュッ」という音。揮発したインクの匂い。
そのとき、魔法が起こった。詩を作っているとき、僕はちっとも仕事をしている気がしなかった。遊んでいる気分だった。
パソコンに向いている作業。向かない作業
パソコンはアイデアを編集するにはいい。アイデアを世に送り出す準備をするのにもいい。でも、アイデアを生み出すのには役立たない。削除キー(デリートキー)を押す機会が多すぎる。パソコンは僕たちを完璧主義者にする。アイデアが浮かぶ前から、アイデアを編集してしまうことになる。
オースティン・クレオン
作家
アーティスト
講演家