「お互いに迷惑をかけないため」の遺言書
佐々木さんはいつも笑っている方でした。七〇歳を過ぎてもアクティブに動き回る佐々木さんは、いつ会っても素敵な笑顔を見せてくれます。
そんな佐々木さんが、ご主人と一緒に遺言書の作成依頼に来たのは二年前のとても暑い夏の日でした。
私の事務所は、住宅街に抜ける商店街の途中にあるので、何の連絡もなしにふらっと訪ねてくる依頼者も珍しくはありません。忙しいときには日を改めてもらいますが、時間があれば、その場でお話を伺わせていただきます。
佐々木さんご夫婦も、突然ふらっと訪ねてきた依頼人です。お二人を見て、最初に抱いたのは「お洒落なご夫婦」です。
高級ブランドに身を包んだ佐々木さんとアロハシャツにサングラスというラフな出で立ちのご主人。アンバランスな組み合わせのようにも思えますが、そう見えなかったのは二人の距離が近く、一見して仲の良さが伝わってきたからなのかもしれません。
「突然来ちゃって、遺言書の相談ってできるのかしら」
佐々木さんが言うと、強面のご主人が優しい声でこちらを気遣います。
「俺は電話してから来ようって言ったんだけどよ」
その日は時間があったので、「大丈夫ですよ」と答えると、佐々木さんは「ほら、言ったじゃない!」とご主人の腕を軽く叩きました。
叱られた子どものように小さく笑ったご主人の姿をとてもよく覚えています。
佐々木さんご夫妻には子どもがいませんでした。子どものいない夫婦の場合、相手にもしものことがあったとき、遺産の相続は配偶者だけではないため揉め事が起きやすいのですが、佐々木さん夫婦はどこかでその話を聞いていて相談に見えたのです。
「家族なんか増やさなくても、俺にはこいつがいてくれればそれで十分だったからね」
「あんた何言ってんの? 自由気ままに遊び回りたかっただけでしょう」
若い頃、ご主人はマスコミで働いており、ずいぶんやんちゃをして佐々木さんに苦労をかけたのだといいます。
「だからこれ以上迷惑かけたくなくてさ。遺言をちゃんとしておきたいんだよ」
そして、何度か打ち合わせを重ね、佐々木さん夫婦はそれぞれ遺言書を作成しました。公証役場ですべての手続きが終わったときも佐々木さんは「これで安心できるわ」と言って笑いました。