ただし「無意識=本心」とは限らない
また、フロイトが挙げていた例では、病気の夫の食事制限について主治医から、「彼の好きなものをなんでも食べさせていい」と言われた妻が、「私の好きなものをなんでも食べさせていいと言われた」と取り違えたケースもあります。この妻は、夫を支配したい気持ちが強く、夫の食べるものは自分が決めて当然と考えているために、ついうっかり「私の好きなもの」と言い間違えたのだと分析しています。
またもっと分かりやすいのが、度忘れです。これは、単に「忘れたい」という無意識の願望があったので忘れてしまっているということです。
フロイトの弟が、知人に手紙を出したところ、何度投函しても戻ってきてしまいました。
最初は宛名の書き忘れ、次は切手の貼り忘れといった具合です。これは、弟が心の底ではその手紙を出したくないという気持ちを抱いているからではないかと、フロイトは推察しています。
こうしたことは、私たちの日常でも起こっています。誰かに頼み事をされていたのを度忘れしてしまったとき、本当は頼まれたことに気乗りがしなかったり、頼んだ人のことを良く思っていないのかもしれません。ただの度忘れとはいえない無意識の意図が、そんなところから見えてくることがあります。
それこそが「本心」なのだと考える人もいるかもしれません。ただ、この本心というのもなかなか曲者です。
■無意識には、互いに矛盾する内容や、真逆の気持ちが併存することも…
本心というとなにか本当の気持ちを意識的に隠しているかのように聞こえますが、そもそも無意識的な願望というのは意識できないものです。どちらかというと、意識的には受け入れ難いので抑圧されている本能的な願望であったり、非倫理的な欲望だったりします。そして無意識の内容は互いに矛盾していたりするものが非合理的に同居するので、まったく逆の気持ちが同時に存在していることもあり得るのです。
したがって、本当に思ってもみないと感じることが無意識には存在しているかもしれません。それは夢や失策行為、その他の無意識的な行動から類推されるしかないものです。