大学教授になるには「適性がある」ことが大前提
筆者は会社員から大学教授へと転職し、大学は天国のような職場だと感じました。上司がいなくてノルマが少なく出世競争も厳しくない、等々については拙稿『上司はいない、ノルマも最小限だが… 大学教授が「驚くほどよく働く」ワケ』※を併せてご参照いただければ幸いです。
※ https://gentosha-go.com/articles/-/43211
しかし、それでも若者に「大学教授を目指しなさい」というアドバイスはしていません。後述するように、大学院への進学はコストが高くリスクも大きいからですが、それ以前に大学教授への適性が備わっているか否かの自己分析が重要だからです。
大学教員は、個室で黙々とデータと格闘し、真理を追求して論文を書くのが仕事です。研究テーマや研究方法は自由に決められますが、そのテーマで成果が得られなくても自己責任ですから、孤独であり、プレッシャーは相当のものです。
そうした仕事が好きな人にとってはいいですが、大勢の人々と関わり合いながら対人関係スキルを用いた仕事をしたい人にとっては、苦痛でしょう。
友人が作りにくいという点でも大学教員は孤独です。学部内には専門が近い教員がいない場合が多いので、学部内で他の教員と研究内容について語り合うことは少ないでしょうし、個室なので雑談をする機会も多くないからです。
これらを考えても「大学教授を目指したい」という読者は、大学進学後に大学院に進学する(王道)、あるいは、就職してから社会人大学院に通う(脇道)などを検討しましょう。
「大学→大学院→修士号&博士号取得」が王道だが…
大学教授になるための王道は、大学卒業後に大学院に進学し、修士課程と博士課程を修了して博士号を取得することです。大学教授の価値観のなかで、博士号を持っていると非常に高い評価を得られるからです。
大学で教員を採用するのは、実質的には教授会であり、教授たちの価値観が「教授を目指す人の価値は論文で決まり、博士論文のある人は立派な人だ」というものである以上、博士論文の存在が非常に有利であることは容易に想像できるでしょう。
就職してからの論文のほうが遥かにレベルは高いのでしょうが、博士論文の有無が重視されるのは、「5年間で研究者としての姿勢等々をしっかり叩き込まれているはずだから」ということなのでしょう。もしかすると、それに加え「つらい5年間を過ごした経験を共有する仲間だ」という意識があるからかもしれませんね。筆者は博士号を持っていないので、そのあたりはわかりませんが(笑)。
5年間「無収入+授業料支出」のコストは、相当大きい
とはいえ、まず最初に突き当たるハードルは経済面です。同期が就職して収入を得て、社会で活躍しているときに、無収入かつ研究者養成所に授業料を払い、鍛えてもらうわけですから。
それに、大学は楽しい場所ですが、論文の作法を叩き込まれる大学院は、その限りではないようです。
論文というのは、だれも発見していない真実を見つけ、紹介するものです。簡単に集められるデータを普通に分析した程度では、すでにだれかが論文にしているでしょうから、「人類の叡智に1ページを加えたもの」とは見なされないということです。
そこで、他人が面倒がって扱わないような膨大なデータを集め、分析することが求められるわけです。「論文は、知恵がなければ汗で書け」といわれているように、よほど知恵がある人は別として、つらい作業が続くわけですね。
加えて、およそ論文というものは、作法が重要なので、論文としての文体で記すべきことは当然ですが、先行研究をすべて読み、注と参考文献を明示する、といった決まりを守る必要もあるわけです。そうした作法も大学院で叩き込まれるわけですね。
問題は「頑張っても報われるとは限らない」点
こうして苦労して博士号を取得しても、すんなり大学教授になれるとは限りません。むしろ、助教→講師→准教授→教授というコースに乗れる人は少数かもしれません。
博士号を取得してから大学での仕事を探す間、研究員として雇ってもらえるのか、それともコンビニでアルバイトをしながら過ごすか、人によってさまざまだと思いますが、問題は、頑張れば報われるとは限らないことです。
博士号を取得しても大学教員になれない場合、民間企業への就職は相当難しいといえます。日本の民間企業は、博士号を持った就活生を歓迎しない傾向が強いからです。そのそのため、下手をすると一生アルバイト生活することにもなりかねません。
博士号取得は容易でも、大学教授の椅子は遠く…
昔は博士号の取得は困難でしたが、最近は博士課程を卒業して真面目に論文を書けば、それほど難しくないようです。
しかし、博士課程の定員が増えているため、博士号を取得するライバルは毎年大勢います。大学教授の定員はそれほど増えていないので、競争は激化する一方です。
加えて、天下り先が少なくなった官僚等々も大学教授を目指すようになるなど様々な経歴を持つ多数ライバルと競い合う必要があるわけです。
大学院に通うという、資金と労力の両方に多大なコストをかけたうえ、大学教授になれずに一生アルバイトで暮らす可能性も小さくないわけですね。
もちろん、大学教授になれば、上述の拙稿にも記したとおり、素晴らしい人生が待っているわけですから、コストもリスクも気にせず突き進む、という選択も当然あり得ます。ただ、その場合には「コストもリスクも小さくない」ことをしっかり自覚したうえで、覚悟を持って突き進んでください。
それらのコストとリスクを避けるという意味では、回り道をする選択肢もないわけではありませんが、その話はまた別の機会に。
今回は以上です。なお、本稿は拙著『大学の常識は、世間の非常識』の内容の一部を御紹介したものであり、すべて筆者の個人的な見解です。
塚崎 公義
経済評論家・元大学教授