誤りを大人が正すのは正解ではない
大人は、子どもが間違えると当然のように正そうとします。そして大人の指示通りに訂正させます。無意識のうちに、それが大人の役割だと思っているからです。
しかし、モンテッソーリ教育では、「自分で気付き、訂正すること」を大切にしています。マリア・モンテッソーリは、子どもは自分の力でそれができると考えました。そして、子どもの間違いをあからさまに訂正することは、子どもを蔑んだ行為だと考えたのです。
第16代アメリカ大統領、エイブラハム・リンカーンはこう言いました。「あなたが転んでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ」。モンテッソーリ教育においても、子どもが失敗から自分自身の力でどのように立ち上がるのか(=レジリエンス)を大切にしているのです。
自分で間違いに気付く重要性
子どもが誤ってコップを倒し、机の上に水がこぼれてしまいました。そんなとき、誰よりも子ども自身が「しまった!」と感じています。それなのに私たち大人は、追い打ちをかけるように「何やってるの! 水浸しじゃない!」と子どもを責めてしまいます。
このように怒られ続けた子どもは、間違ったときにそれを正すのはいつも大人で、大人は自分よりも強い存在だと思うようになります。そして、自分には自分を律する力がないと考え、いつも大人の顔色をうかがうようになります。怒られることをおそれてびくびくするようになり、自分自身で誤りがないかを考えて間違いを訂正しようとは思わなくなるものです。
そうなってくると、大人に支配されるのが当たり前で、自分で何かをしようとは思わなくなります。保護者に依存する子というのは、実は保護者に叱られ続けた子なのです。
これでは子どもの自尊感情は育ちません。「自分はできないんだ」という劣等感が芽生え、自信を失ってしまいます。「しっかりした子に育てなきゃ」と、厳しく子どもを叱り続けていると、それとはまったく逆に、自立できない子になってしまうのです。
自分の間違いに気付き、それを自身の力で訂正していくことは、長い人生を歩んでいく上では絶対に必要です。いつも誰かが助けてくれるわけではありません。
誤りを素直に認め、それに対して自分で責任を持つこと。そのような態度は、幼少期の「間違いに自分で気付く」という訓練から生まれてくるのです。
「提示」をすれば、子どもは自分で間違いに気付く
では、どうすれば子どもは間違いに気付くでしょうか。
それは、正しいやり方を見せること、つまり提示です。「こうすればよかったね」と、提示をくり返します。一度やって見せたからといって、すぐに間違いがなくなるわけではありません。また同じような間違いをくり返したとしても、保護者は根気よく、もう一度やって見せるようにします。
「もう一度やってみる?」と、子どもに誘いかけるのもいいですね。もしこのような声かけによって間違えることなくできるようになったとしたら、その子は自分で間違いや誤りを訂正できたということになります。
せっかくお箸で食べようとしたのに、「違うよ」「間違っているよ」と言われ続けたら、お箸を使うのが嫌になってしまいます。保護者が子どもを否定せず、提示をくり返せば、子どもは自らの間違いに自分で気付き、なおかつチャレンジし続ける意欲を持つことができます。間違いに対しても、肯定的な関わり方ができるのです。それは同時に、子どもに対する「敬意」の表し方でもあります。
「誤り」に自分で気付き、納得しなければ治らない
子どもが何か悪いことをしたとき、子どもに「ごめんなさいは?」と詰め寄り、謝らせることがあります。しかし、このようなその場しのぎの叱り方では、子どもはまた同じ失敗をしてしまいます。
なぜなら、何が悪いのか子どもはちっともわかっていないからです。必要なのは、子ども自身が「なぜそれがいけないのか、誤りなのか、間違いなのか」を知ることです。叱られている原因を理解していなければ、また同じ間違いをくり返します。
園では、子どもたちが自分で間違いに気が付くことができるように工夫をしています。例えば「機織(はたお)り」という活動では、縦糸をあえて目立つ色にしています。間違えて織ると、縦糸が必要以上に目立つため自分で気が付くことができるからです。
また、数字や文字などの誤りは、正しい文字が書かれたものを目の前に置くことで、気付きを促します。気が付かないときでも、「違っているところ、あるかな?」と、クイズのように尋ねてみましょう。あくまで子ども自身で気付くことが大切だからです。
ボタンの掛け違いがあれば、そのまま鏡の前に連れて行きます。よく見せることで、子どもは自分自身で誤りを訂正できるようになるのです。
善悪の判断と、子どもの非はしっかり伝える
お話ししてきたように、子どもの失敗に関してそれを直接指摘し、あからさまに訂正する必要はありません。しかし、やっていいことと悪いこと、つまり善悪に関しては示していかなければなりません。
例えば友だちを叩いたり蹴ったりすることは、してはいけないことです。このようなことについては、毅然(きぜん)とした態度で「してはいけない」と伝えることが必要です。
また、悪気はなかったとしても子どもに非があるときには、そのことを伝えなければなりません。周りを見ていなかったために、人にぶつかってしまった。図書館で大声を出し走り回ってしまった。そういった場合も同じように「いけない」ということを伝えます。
そんなときには、「自分が、ちゃんと周りを見ていなかったからぶつかったんだよね」「図書館は静かに本を読む場所だよね。大きな声を出してはいけないよ」と伝えます。
同じ失敗をくり返さないためにも、何が悪かったのかという事実を子どもに話し、理解させることが大切です。「間違いを訂正しない」ことと、「子どもに非を伝えない」ことを、混同してはいけません。
松浦 公紀
松浦学園モンテッソーリ子どもの家 園長
日本モンテッソーリ教育綜合研究所 教師育成センター長