タイとラオスを結ぶ「第2友好橋」
日本や、あるいはバンコクで活躍する日本人の間で「東西経済回廊」という存在がにわかにクローズアップされたのは、2006年12月のタイ=ラオス第2友好橋の開通ではないだろうか。日本のODAの円借款ローン(約80億円)によって、三井住友建設が施行したこの橋は、雄大なメコン河を横断し、河によって分断された両国を結んでいる。ラオス側はサワンナケート、タイ側はムクダハンが基点だ。建設の際には工事用クレーンが倒れる事故が発生。日本人技術者3人が犠牲となった。
まさに日本人の血と汗によって橋は完成、タイからベトナムまで、バンコクからダナンやハノイまで、陸路で迅速に向かうことが可能になったのだ。
橋がない時代、メコン河を行き来するフェリーに貨物を乗せ、対岸でまた荷揚げしてと、2日ほどかかっていた。それがいまでは2時間ほどで済む。AECの進行によって通関のシングル化が進めば、さらに時間は短縮されていくだろう。
橋の開通で「サワンセノ経済特区」に人とモノが大量流入
この第2友好橋の開通から遡る2003年に設立されたのが、サワンセノ経済特区だ。サワンナケートの郊外にあり、友好橋からもほど近い。ラオスではじめての経済特区として大いに期待されたのだが、当初はまったく注目されていなかった。サワンナケートに工場をつくるメリットがなかったのである。
しかし橋の開通によって、サワンナケートの様相はがらりと変わっていく。タイからラオスに向かう輸送用の車両は、開通後まもない2007年は年間で約1万2000台だったが、2011年には約3万台にまで増えた。バスは約8000台から約5万5000台となり、乗用車は約2万台から約10万台へ、いずれも急激な伸びを見せた(JICAによる)。
橋を通過していく人数は、2007年が約62万人だったが、2011年は191万人と増加。このなかには国境を越えてベトナムから訪れる観光客、タイからベトナムを目指す観光客も多数おり、東西回廊が国際旅客を刺激していることを伺わせる。
メコンを挟んだこの国境の貿易額に至っては、10倍ほどにまで膨れ上がった。橋が開通する前の2005年は約63億バーツ(約213億円)だったが、2011年には約620億バーツ(約2095億円)に。この「活況」を受けて、静かな地方都市に過ぎなかったサワンナケートには人とモノとが大量に流入するようになった。大型のショッピングモールやカジノなども建設された。
タイでの大洪水をきっかけに日系企業が進出
こうして橋を介した貿易が活発になっていくなか、2011年、タイで大洪水が発生する。さらにはタイの人件費高騰もあり、生産地の分散を考えた企業による、サワンセノ経済特区への進出がはじまったのだ。
日系企業ではトヨタ紡織が2013年にラオス工場をオープン。自動車用内装部品の生産を開始した。タイ工場を補完するサテライト的な役割が期待されている。また洪水で被害を受けたニコンも、一部の工程をサワンセノ経済特区に移設。さらには三菱マテリアルなどの企業も進出し、大きな話題となった。
大きな会社の工場ができるということは、関連部品を納入するサプライヤーなど別の会社もまた現地に進出することを意味する。こうしてフロンティアが開拓されていく。
ラオスは海に面しておらず国際輸出港がないため、生産の一大拠点になることは考えづらい。しかしタイやべトナムで操業する日系工場をサポートする場所として機能することが求められている。山岳国の特性を生かした水力発電による豊富な電力と、アセアンのなかではまだ安い人件費が強みだ。タイとラオスは言葉や文化が近いため、タイ人の技術者やマネージャークラスがそのまま働けるという利点もある。
ようやく動きつつある東西経済回廊が、そんなサワンナケートを後押しする。フランス植民地時代の教会や、コロニアルな街並みが残るサワンナケートの旧市街には、いまや日本人ビジネスマンが駐在するまでになった。タイやベトナムに工場をもつ企業の、あるいは日本からの視察に訪れる出張マンも目立つ。彼らを当て込んだ和風の居酒屋もある。インドシナの辺鄙な田舎町は、日本が架けた橋によって大きく変わろうとしている。