清貧への理想と現実…「華麗なる西郷家」の真実
●世間とのズレ…西郷家が考える“質素な生活”
東京への引っ越しの約1年前にあたる明治3年(1870年)、まだ鹿児島にいた西郷は、政府から派遣されてきた岩倉具視たちに「改革案」を手渡しました。その中では「政府の中枢に位置する要路の者は驕奢(=贅沢)な生活を止め、質朴の風を守るべきである」と西郷本人が言っているのですが……。彼にとって“質素な生活”は、われわれが考える“豪邸暮らし”にあたるようです。
西郷家の屋敷内でどれほど華麗な生活が行われていたか、具体的な情報は残念ながらありません。ただ、それをうかがい知ることはできます。
西郷の次男・寅太郎とその妻・信子が、夫婦で暮らした牛込区(現在の新宿区)の豪邸を売りはらった時の状況が興味深いのです。西郷の2人目の妻・糸子は当時53歳で、寅太郎夫婦と同居していました。しかし、信子の荒い金遣いを、糸子は咎めなかったようですね。いくら糸子が評判通りの控えめな人柄だったとしても、家を売らざるを得なくなるほどの浪費を止めないのは不干渉すぎるのではないでしょうか。
いくら信子が北海道経済界を牽引し、北海道セメント(のちの太平洋セメント)の創業者にもなる園田実徳の愛娘として贅沢に育てられたとはいえ、糸子の不干渉ぶりには、彼女が信子の浪費を仕方ないと受け止めていたことが透けて見えるようです。人形町のお屋敷で暮らしていた頃の西郷が、家族に「体面維持のため、1ヵ月に100円(=100万円)は使いなさい」と命じた噂の真実味も増しますね。
明治以降の西郷隆盛を“清貧の士”と呼べるのは、金遣いがさらに荒かった新政府の役人たちと比べた場合だけ。貧しい時代が長かった反動かもしれませんが、一般的には“贅沢好き”というしかない生活を、西郷は家族ともども送っていたと推定されるのです。
●上野公園の西郷隆盛像へのクレーム
明治31年(1898年)12月18日、上野公園の西郷隆盛の銅像の除幕式が行われました。糸子は銅像を見たとたん、「やどんしは、こげな人じゃなかったこてえ、浴衣で散歩はしもさんど(=私の主人はこんな風体ではない。浴衣で散歩なんかしなかった)」と不満を述べ、式典の最中から西郷の弟・従道に何度も「銅像は似ていない」と言って憚らなかった……そんな逸話もあります。
すでに西郷は「西南戦争」で戦死していたのですが、未亡人の糸子の主張をまとめると、「亡き夫はその高い地位にふさわしい威厳のある服装をいつもしていた」となるでしょう。
ただ、当時の新聞記事からは、糸子はおろか、そもそも西郷家からの出席者がいたのかさえわからず、この逸話の出どころも判然としていないのだそうです。
とはいえ、西郷の長男である菊次郎(奄美大島時代、西郷の“内縁の妻”だった愛加那が生んだ二人の男子のうちの一人)が「父の銅像になぜあんな姿をさせたのか、私は相談を受けていませんから分かりません」と否定的な発言をした記録は残っています。「本当の西郷隆盛は、上野の銅像のようにラフな格好で外を出歩くような人ではなかった」という、当時の西郷家の不満は感じ取ることができるでしょう。一度でも富裕な生活の旨味を味わえば、清貧の美徳などたやすく忘れてしまうものなのでしょうか。
堀江 宏樹
作家・歴史エッセイスト