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東灘区のアパートで「阪神・淡路大震災」外に出たら
私が防災を主軸に起業した経緯には、日本が戦後に経験した二つの大震災が大きく関係している。
一つ目は、1995年1月17日の早朝、午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災である。地震の規模はマグニチュード7.3を記録し、実に死者6434人、負傷者4万3792人もの人的被害を出した。
住宅被害は64万棟近くにも上り、7000棟以上の家屋が全焼した(2005年12月22日消防庁まとめ)。被害総額は、兵庫県の推計によれば、建築物、港湾、高速道路、商工関係、ガス・電気、鉄道、文教施設など多岐にわたり合計9兆9268億円にも上る。
神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市及び淡路島の一部では初めて「震度7」が適用され大阪府内でも震度6が適用されるなど、東北から九州にかけて広い範囲が揺れに見舞われたのである。
私はこの日、神戸市東灘区のアパートで布団の中にいた。高校を卒業してから、関西の大学に在籍し、1年目の年であった。東灘区は、神戸市でも特に被害が大きかったエリアである。東灘区の深江地区では阪神高速道路神戸線が635メートルにわたり17基の橋脚が倒壊した。
布団に寝ていた私は、突然の大きな揺れに驚いて目を覚まし、なんとか身の安全を確保して一命を取り留めた。揺れが収まりやっとの思いで外に出てみると、私が住んでいたアパートはすべて潰れ、周辺の民家や建物もことごとく倒壊していた。
なんとか近くの小学校にたどり着き、そこで一夜を過ごした後、翌日から周辺地域でのボランティア活動に身を投じた。
震災直後より、全国各地から延べ180万人(97年12月末までの推定)ものボランティアが被災地に駆けつけたが、私もその一人であった。
瓦礫の撤去、炊き出しの手伝いなど、やれることはたくさんあったので、被災したその日から4月一杯、私は毎日あちこちに出かけ、何かをせずにはいられなかった。東京の実家に帰れば、わざわざ不便な避難所生活を送る必要はなかった。
だが、自分と同じようにあの揺れを体験し、恐怖し、生き延びた人達が私以上に困っている。同級生にも犠牲者がいるなかで、自分だけが快適な実家に帰ることは、どうしてもできなかった。特別な知識もスキルもなかったが、体が動くなら、せめてボランティア活動をしようと私は決めたのだった。この時以来、学生生活の合間を縫って、さまざまな災害ボランティアに参加するようになった。