「自分がこんなでは、お母さんが可哀そうだ」
退院してからの父は、ますます病気の侵攻が進みました。自力で嚥下することもできなくなり、胃瘻から注射器で栄養分を直接流し込む生活になりました。動かすことのできない手足は、筋肉が衰えてしまい骨と皮だけのような細さ。人工呼吸器のマスクがつねに接している顔は床ずれのような傷もできました。座ることすらできず、そのためトイレも完全にオムツでするようになりました。これまでの介護も厳しいものでしたが、さらにその厳しさは増しました。途中、そうした家族を休ませるために利用できるレスパイト入院も利用して、溜まった疲れを癒したりもしました。
退院してからちょうど半年くらいが経過したころでしょうか。父がしきりに口にするようになったこと。それは「自分がこんなでは、お母さんが可哀そうだ」でした。ちょうどそのころから、父はうつ状態になることが増えました。死というものを見つめたとき、自分が無力であることを感じていたようです。そして、母のことを気遣う言葉がとても増えました。そんな父の思いに対して、何もしてあげられない無力感。これは自分に対して罪の意識のように覆いかぶさってきました。気持ちのなかに、助けてあげられないことへの歯がゆさだけが色濃く残ったのです。
それでも、何とかうつ状態の父の気持ちを上向きにしようと、自分が介護に行く週末には好物だったものを買っていきました。少量のスープ程度は口から飲めましたので、いろいろなものをやわらかく煮たりミキサーにかけたりして、少しでも味わえるようにしたのです。しかし、家族の思いをよそに、病状の進行は止まりませんでした。
最後の選択をしなければならないとき
年の瀬まであと一か月くらいの年末が近づいたある日。夜中の2時くらいでしたが、ちょうど入稿作業を終えて寝ようとした私の携帯が鳴りました。着信は母からで「お父さんが心肺停止して救急車で搬送された。今から自分たちも病院に行くから」というものでした。ただ、不思議と焦った気持ちはなかったのです。おそらく、ずっと介護をしてきたなかで、無意識のうちに父との別れの日を、心のなかで整理していたのかもしれません。とはいえ、深夜の高速道路を飛ばして病院へと駆けつけました。
病院には母と弟夫婦がいて、父は救命センターのベッドに寝かされていました。心肺停止してから駆け付けた救急隊と、救命センターの方々の尽力によって一命はとりとめたのです。ただ、その時間が長かったこともあり、意識が回復することはない、という医師の診断でした。血液がまわらなかったために、脳がダメージを受けてしまったのです。自発呼吸することもできず、完全に機械による呼吸。そして戻ることのない意識。私たち家族にとって、最後の選択をしなければならないときが、間近に来ていることだけはわかった瞬間でした。
次回で最終回となりますが、医師から告げられた究極の選択。父への思いを込めて、最後に選んだ私たち家族の答えをお伝えしたいと思います。