実際、私たちは常に「幸福」という結果を求め、お金や食べ物、愛など、幸せをもたらすものや手段を「善」と考えます。非常に受け入れやすい考え方と言えますが、最大多数を優先すれば少数者は除外、排除されます。
最大多数が幸福になるためには、少数の人は不幸になってもよい、功利主義には、そんな格差を助長する危険性が秘められていることも確かです。極端な例としては、いじめをされている不幸よりも、いじめをしているものの幸福が大きければいじめを肯定します。
われわれが日々直面するのは、一人ひとりの患者に対する医師としての義務と、集団としての患者集団に対する義務の対立です。カント的倫理観では医師は個々の患者の利益を可能な限り追求するべきです。
しかし、カントの倫理観が成立するのは、資源に限界がないという前提が成り立つ場合のみです。1人の命の維持に年に数億かけてもいいでしょうか?
厚労省も高齢者の癌治療に抗癌剤を使用することに意義があるかという検討を始めています。現在は多くの組織は決められた経済的範囲内で、質の高いケアを提供するという二重の使命が要求されるようになり、カント的倫理感のみでは成り立たなくなっています。
医療ではエビデンスに基づく医療(evidence based medicine:EBM)は功利主義に基づくものと理解でき、公衆衛生学や救急におけるトリアージはこの発想が根底にあります。もちろん医療政策を含めた政治に関してもその立場にあります。
カントの倫理観では、治験の際にプラセボ(偽薬)群に当たったと分かれば治験から脱落することになるかもしれません。そうなると新薬の開発が進まず、未来の多くの患者の治療が滞るかもしれません。
一方で、カント的倫理観が行きすぎると、ヒトの命がかかっていると言えばどんな要求も満たされなければならないという過剰な要求を起こすリスクもあります。救急外来に深夜に風邪症状で受診するような患者にとってみれば、明日は仕事があり受診できないし、熱も高く一刻も早く受診したい。しかし、病院では救急搬送患者が連続しており、当直医師のみでは対応しきれない状態ということがあります。
そこで[図表3]のケースを考えてみて下さい。功利主義が行きすぎると、次のような費用便益分析(=コスト・ベネフィット分析の研究結果)すら正当化されてしまいます。
有名なフィリップモリス研究を挙げてみましょう。チェコでたばこの消費税率を上げる提案があった時、アメリカの煙草会社がチェコにおけるたばこの費用便益分析を行いました。
その結果、チェコ政府は国民の喫煙で得をすると結論づけました。[図表4]のように費用(コスト)と便益(ベネフィット)を比較した結果、フィリップモリス社は「市民が喫煙することで、チェコ政府は得をする」という、驚くべき結論を出したのです。
つまり、「喫煙者が増えると肺癌で早死にする人も増えるから、そのぶん政府は得をするよ」と言ったわけです。
他にも車のリコールの費用対効果分析で、リコールの費用の総額(1億3,700万ドル)の方が、一定の割合で死者が出た際に保証金を支払うとの前提にした場合(4,950万ドル)よりも、かえってコストが高くつくといった試算になりました[図表5]。この分析から、欠陥を放置したため、裁判では多額の賠償金を支払うことになったと言われています。
3.キャリア志向:ローカルvs.コスモポリタン
次に、医師が経験するコンフリクトとしてキャリア志向が挙げられます。キャリア志向とは「キャリアの上で辿ろうとする方向、キャリアの上で重視する事柄」と定義されます。
元来、プロフェッショナルマネジメントの困難性の一因としてキャリア志向があります。ゴールドナーが提唱したように、プロフェッショナルマネジメントの際にはローカル(local)vs.コスモポリタン(cosmopolitan)の2つの視点があります。
ローカルとは所属組織に対して高いロイヤリティを持ち、専門的スキルに関して低いコミットメントしか示さない人を指します。準拠集団を所属組織に置いていますので、組織目標や組織の規範や価値を受容し、いわゆる価値の内面化を行っています。
これに対して、コスモポリタンとは、所属組織に対してあまりロイヤリティを示さずに、専門的な知識や技術に対して高いコミットメントを示す人々です。準拠集団を内部の自組織ではなく、外部の専門家集団に置いていますので、所属組織の目標や価値よりも、自らの職業に由来する価値や倫理観を優先するといった特徴を持っています。
社会心理学者の田尾雅夫氏は、病院勤務医師が勤務している病院にコミットするか、医局や学会、あるいは研究者仲間との親密な付き合いを重視するかといったものと重なると指摘しています。
所属内部での評価よりも専門家集団からの評価を重視します。従来はローカル志向とコスモポリタン志向は背反するため両立することはなく、二者択一的だと言われてきました[図表6]。
また両方の志向を持つプロフェッショナルは業績が低いことが指摘されました※2。しかし、このような結果は、純粋な研究者を対象に研究論文といった成果を業績指標としており、企業や産業界のプロフェッショナルでは両者の志向を持つことが業績にプラスの影響を与えることが分かってきています※3。
※2 田尾雅夫.組織の心理学新版 有斐閣、1999 年
※3 三崎秀央.研究開発従事者のマネジメント 中央経済社、2004年
近年、プロフェッショナルの仕事が高度化、複雑化しているために、単独で仕事は完結できず、自組織の目標と摺り合わせて関連部署と調整するなど、ローカルな志向を持っていることも重要になっているからです。
医療職のようなプロフェッショナルのマネジメントでは、ローカル志向とコスモポリタン志向の両方を活かすにはどうすればよいのかを考える必要があります[図表7]。
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愛知医科大学 内科学講座肝胆膵内科学准教授
角田 圭雄
愛知医科大学内科学講座肝胆膵内科学准教授(特任)。一般社団法人日本医療戦略研究センター(J-SMARC)代表理事。医師、博士(医学)、MBA(医療経営学修士)。
1970年大阪府生まれ。1995年京都府立医科大学卒業、2002年京都府立医科大学大学院で博士号(医学)を取得。市立奈良病院消化器科部長、京都府庁知事局知事直轄組織給与厚生課健康管理医(総括)、京都府立医科大大学院医学研究科消化器内科学講師を経て2016年10月から現職。2015年英国国立ウェールズ大学経営大学院でMBA in Healthcare Management(医療経営学修士号)を取得。立命館大学医療経営研究センター客員研究員を兼任。日本肝臓学会評議員・指導医。日本消化器病学会評議員・指導医。日本医療経営実践協会医療経営士3級。
著書に『最新・C型肝炎経口薬治療マニュアル』(2016年4月、編集および共著)『症例に学ぶNASH/NAFLDの診断と治療|臨床で役立つ症例32』(2012年4月、編集および共著)、『最新!C型肝炎治療薬の使いかた』(2012年10月、編集および共著)、『見て読んでわかるNASH/NAFLD診療かかりつけ医と内科医のために』(2014年8月、編集および共著)
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