「スマホ時代」をどう生き抜くべきか
70歳代になる私の上司は、いまだに携帯電話もスマホも持っていません。今時、連絡を取るのに不便だから、せめて、携帯くらいは持って欲しいのですが、揺るがないポリシーを貫いています。
彼曰く、「携帯やスマホの利便性と可能性は認めるけれど、その反面、生の人間関係を失うのが怖い。僕には携帯を使いこなして、真の人間関係を築くに値するほど成熟しているという自信がない」と、恐れ多いお言葉を頂きました。
ここだけの話ですが、携帯もスマホも、彼ほど成熟した大人に危害を与えるほど恐ろしい代物ではないと、私は思っています。むしろ、なーんにも考えずに、スマホを使いこなせている、と思っている人たちが問題です。
学生の話を聞いていると、ラインの既読スルー問題に始まり、グループラインでの会話で意見が合わず、知らないうちに自分だけ外された別のグループができていた、なんていうのは日常茶飯事。あちこちでトラブル発生です。
「文字で真意をつかむ自信がないなら、直接、会って話せば意見に食い違いは生まれないし、納得し合えるかもね」と言いますが、耳には入っていない様子です。SNSの画面を通して発生する対人関係ストレスは、ますます複雑で深刻になっているようです。
あなたは、いつ何時入ってくるかわからない着信が気になるので、片時もスマホを手放さずに持ち歩き、スマホに振り回されて日々の生活を送っていませんか。
きっと、スマホを置き忘れて出掛けてしまったなら、一日中、不安で仕方ないでしょう。
では昔はどうだったのでしょう。明治の文豪夏目漱石は『草枕』の冒頭で、自由のない人間関係の難しさがストレスになることを洒脱な言い回しで嘆いています。
「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という一節がありますね。
理知的に自分の主張を通していると、自己中心的な人間として仲間から疎まれることになる。他人とうまく協調しようとして相手の機嫌を気にしすぎると、情に流されて自分らしさを失ってしまう。かといって、意地を通すわけにもいかず、自由のないこの世は窮屈で仕方ない。SNSはなくても、昔も今も対人関係がストレスになる、ということを見事に表現していると思います。