多くの人は、大変な思いをして獣医師になったが…
現在、獣医師として働いている人は、その職を得るためにこれまで大変な努力をしてきました。
まず、獣医師になるためには獣医科大学または獣医学部に入学しなければなりませんが、その数は国立大学で10校、公立で1校、私立で6校に限られ、すべてを合わせても毎年1000人前後の枠しかありません。医学部や歯学部に比べても圧倒的に狭き門となっています。
その門を乗り越えるために高校時代は、脇目も振らず必死の思いで勉強していたという人ばかりでしょう。大学に入ってからも、講義や臨床実習に追われる毎日で、同世代の若者と同じような程度で遊んだり、サークル活動を楽しんだりする余裕などはなかったはずです。
そして、獣医師になるためには資格試験に合格しなければなりません。獣医師国家試験の合格率は現在80%を超え、基本的には大学で学んだ知識が問われる設問が出題されますが、決して易しい試験ではありません。しかも卒業論文がある大学であれば、試験勉強と並行して卒論の作成を進めなければなりません。そのため、時間がいくらあっても足りず、「徹夜続きだった…」という人もいるでしょう。
このように、並々ならぬ苦労の末に獣医師資格を獲得し、動物病院に勤務医として職を得た、あるいは独立して開業したーーそんな人がほとんどではないでしょうか。
開業すれば確実に成功?「古き良き時代」の終焉
かつては、獣医師という仕事は、間違いなくそのような苦労や努力に十分見合う職業でした。勤務医の時代はたとえ給料は安くても、独立して動物病院を開業すれば十中八九成功が約束されていた、すなわち人並み以上の高い収入が保証されていたからです。
たとえば、昭和56年頃の動物病院の世界を振り返った次の文章をお読みください。
「この時期の動物病院は日本の経済成長の後押しを受けて目覚しい発展を遂げていった。病院の収入も格段に上昇し、病院も改築や新築ラッシュとなって行った。それまでの街の片隅のオールインワン形式の小さな診療所というイメージであったものが、一転、人医にも負けないような動物病院も出現し始めたのもこの頃である。飼い主さんから『今、大きくなっているのは、動物病院ばっかりだな。』という皮肉も聞こえてきた」(柴崎文男「動物病院の変遷と発展ーー私の38年の経験からーー」(広島県獣医学会雑誌No.25(2010)より)。
大きくなっているのは、動物病院ばかりーー。このような動物病院は開業すれば確実に大きな利益をあげることができ、院長は高収入を得られました。俗な言い方をすれば、動物病院の経営者である院長は誰もがうらやむ、まさに「勝ち組」に属していたのです。そして「動物病院の院長」=「勝ち組」という構図は、時代が昭和から平成に移っても、さらにはバブルが崩壊した後も基本的に変わることはありませんでした。
しかし、動物病院の院長になれば誰もが「勝ち組」となれた、そんな夢のような時代はもはや終わりを迎えようとしています。結論からいえば、獣医師業界は減りつつある患者を奪い合う“大淘汰時代”に突入しており、「勝ち組」となれるのは、大勢のライバルたちとの競争に打ち勝つことができた獣医師だけなのです。
これから動物病院を開業しようという人、あるいはすでに動物病院を開業している人はそのような厳しい現実があることを正面から直視しなければなりません。
増える動物病院、減っていくペット数…
農林水産省が出している「飼育動物診療施設の開設届状況(診療施設数)」によると、動物病施設の数は右肩上がりで増え続けています。
一方で、一般社団法人ペットフード協会が毎年行っている「全国犬猫飼育実態調査」によると、全国の推計飼育頭数、「今後ペットを飼いたいと思っている」飼育意向数のいずれも減少傾向にあります。
こうした「ペット減少化」の流れの背景としては、少子化が進み日本の総人口が減少していることや、社会の高齢化、景気低迷などが考えられます。すなわち、人口が減れば、当然ながらそれに比例して新たにペットを飼う世帯の数も減ります。そしてこれまでペットを飼育していた人でも、高齢化すれば「最後まで自分が面倒をみることは難しいだろう」と考えるため、新たにペットを購入することに消極的になります。
その一方で、景気低迷が続けば、「余計な出費は控えよう」という節約意識が強まるため、生活必需品とはいえないペットを飼う意欲は全体的に低下することになるのです。
動物病院市場が縮小する中、広がる「病院格差」
動物病院は増え続けているのに、患者となるペットの数は減り続けているーーこの事実が意味するところは深刻です。動物病院市場が縮小し続けており、その流れがこの先も変わらない危険性があることを示しているからです。
市場が縮小すれば、そこから利益を得られる者の数も減ることになります。その結果、かつては「オール勝ち組」だったはずの動物病院の世界は「勝ち組」と「負け組」に二極化されつつあります。
すなわち、繁盛している病院とそうではない病院ーーその両者の間の格差がどんどんと拡大しているのです。
30代半ばで、大企業の役員並みの給料だったが…
これまで20年以上に渡り、動物病院のデザインブランディングの提案やサポートを行い、獣医業界の内情に深く通じている有限会社アヘッドの岡田雅人代表は、動物病院の間で広がっている格差の問題について次のように述べています。
「一昔前であれば、私たちがサポートした動物病院の院長先生は、開業して5、6年も経てば年間売り上げが3,000万円、5,000万円を楽に超えました。年収で言えば1,500万円、2,000万円です。5、6人のスタッフで運営しているような小さな動物病院の院長が30代半ばで、大企業の役員並みの給料をもらっていたわけです。
開業から10年後には売り上げが1億円に達する病院も珍しくありませんでした。ところが現在は、それだけの売り上げと年収を得ているのは全体の2割程度ではないでしょうか。個人的な実感としてはリーマン・ショックを境に、繁盛している動物病院とそうではないところの差が顕著に現れ始めているように思います」
筆者の知人の動物病院の院長の中にも、昔と変わらず年収が数千万円から億単位の人がいる一方で、開業時に借りたお金の返済や医療機械のローンの支払いもままならず経営が立ちゆかなくなり、日々の生活費を親に頼っているような人もいます。
不正に手を染める動物病院も…
動物病院間の格差が大きく広がる中で、十分な患者を確保できない「負け組」の動物病院の中からは、「売り上げを少しでも維持したい……」という思いからなのか、不正に手を染める院長も現れ始めています。
治療費を不当に水増ししたり、必要もない関連商材を飼い主にすすめたりなど不正の手口はさまざまですが、とりわけ目立つのは「保険金の不正請求」です。
ペット保険大手として知られるアニコム損害保険株式会社は、以下のように自社が被害にあった「不正・不適切な保険金請求」のケースを公表しています(「どうぶつ保険診療アドバイザリーボード 2013年2月・3月審議要旨」より」)。
①診療簿改ざん
・診療簿を抜き取る
疾病発症から保険加入までの間の診療簿を記載せず、保険加入前の疾患を隠ぺい。
・診療簿の改ざん
修正液で来院日の日付を書き換え、保険加入前の疾患の存在を隠ぺい。
・二重診療簿
弊社実施の動物病院監査時に、保険金請求に合わせた診療簿を作成。実際は手術をしていないにもかかわらず、手術実施の記載を偽装。
・発症日の虚偽報告
加入前に発症していた疾患に対し、補償開始後に手術日を設定し、手術当日を発症日であると偽って保険金を請求。
②保険金の架空請求
・ペット保険の加入動物が死亡しているにもかかわらず、契約者は弊社に死亡を通知せず、病院と共謀して架空の診療を偽装し保険金を請求。
・診療費が保険金日額の上限を超える場合、架空に通院日を水増し設定して保険金を請求。
これらに加えて、2013年11月には、保険会社の告訴に基づき、滋賀県の動物病院の院長が「飼い主と共謀してペット保険の保険金をだまし取った」として詐欺罪で逮捕される事件も起こっています。
具体的な逮捕容疑は「2011年4月21日、脚にケガをした犬を診察。翌日に犬がケガをしていないように装って飼い主を保険に加入させた上、ケガが保険適用開始後とする虚偽の申請を東京都内の保険会社に行い、保険料28万8,000円をだまし取った」というものでした。
ペット保険をめぐる詐欺事件で逮捕されるのは「全国初」とマスコミは伝えましたが、このケースが示すように、現実には保険会社に対して不正請求を行う動物病院も少なくないようです。
ペットは「家族の一員」だという思い
動物病院が直面している深刻な難題は、ここまで述べてきたような市場縮小の問題だけではありません。ペットを取り巻く環境が激しく変化している中で、動物病院の経営に対してはほかにもさまざまな解決の難しい現代的な問題が突きつけられているのです。
まずはペットをめぐる環境に具体的にどのような変化が起きているのかを確認しておきましょう。
先に触れたアニコム損害保険が2013年8月に公表した「“ペットとの暮らし”に関するWebアンケート」(対象者数4,616人。複数回答可)では、「ペットを家族の一員と感じるとき」という設問に対して以下のような回答が寄せられています。
・いつでも……3,737人(81.0%)
・帰りを迎えてくれるとき……2,057人(44.6%)
・熟睡している姿を見ているとき……1,742人(37.7%)
・抱っこしているとき……891人(19.3%)
・落ち込んでいるとき(病気のとき)にそばにいてくれる……861人(18.7%)
・自分の気持ちをわかってくれたとき……813人(17.6%)
・その他……178人(3.9%)
愛玩動物からコンパニオンアニマルへ
また、同アンケートでは「ペットと暮らしてよかったこと」という設問もあり、それに対しては、以下のような回答が寄せられています。
・癒しになってくれる(精神的な安らぎがある)……4,172人(90.4%)
・家族の会話が増えた……2,774人(60.1%)
・ペットを通して知り合いが増えた……2,043人(44.3%)
・運動量が増えた……1,323人(28.7%)
・生活が規則正しくなった……1,308人(28.3%)
・家族の帰りが早くなった……540人(11.7%)
・子どもが世話をするようになった……336人(7.3%)
・健康になった(病気が治った)……297人(6.4%)
・その他……233人(5.0%)
さらにソニー生命保険株式会社が2013年9月に50歳から79歳の回答者(1,000人)にアンケートを行なった「シニアの生活意識調査」では、「現在の生活において大切にしているもの」という設問に対して、「健康」(84.2%)、「お金」(60.4%)、「子ども・孫」(57.1%)、「パートナー(妻・夫・恋人)」(54.8%)、「趣味」(53.4%)などの答えとともに、6人に1人が「ペット」(16.8%)を挙げています。
これらの調査結果は、ほとんどの飼い主にとって、ペットはかつてのように単なる「愛玩動物」ではなく、家族と同等の存在、自分の健康や家族と同じくらい大切なものであることを示しています。
家族と同然の愛犬、愛猫は他の家畜などとは違う特別な動物であるという考えのもと、最近ではペットを「コンパニオンアニマル(伴侶動物)」という言葉で言い表すようにもなりました。
実際、フェイスブックやブログなどの自己紹介の欄を見ても、愛犬、愛猫と一緒に写っている写真を掲載している人が大勢います。また、中にはペットの写真しか載せていないような人もいます。それだけ、ペットを家族の一員とみなす、もしくは自らと一体化したものとして考えている人が増えており、また社会もそのような状況を違和感なく受け入れるようになっているのです。
高水準の医療を求める「飼い主」のニーズ
「ペット=家族」という観念が一般化しているのに伴い、飼い主の動物病院に対する要求水準は際限なく高まる傾向をみせています。
人間と同等の医療を求めるのは当たり前、時にはそれ以上のものを要求する人もいます(都内の動物病院の院長から聞いた話ですが、札束をテーブルの上に並べ、必死の形相で「どんなにお金がかかっても構いません。この子を治してください!」と懇願してくる飼い主もいたそうです)。
そうした高水準の医療技術を求める飼い主の声に応えるため、CT(Computed Tomography)やMRI(Magnetic Resonance Imaging)、放射線治療器などの高機能な医療機器を揃えたり、あるいは難易度の高い専門技術を駆使した診療を行なったりする動物病院も増えています。
高度な獣医療を求める飼い主のニーズはこれからもますます強まっていくでしょう。それに応じようとすれば、機種によっては数千万円にもなる高額の医療機器を購入しなければならなくなります。
激しい競争の中で「負け組」となった動物病院が、それだけの購入資金を用意することは困難です。その一方で、潤沢な資本をもつ「勝ち組」の動物病院は難なく最先端の医療機器を取り揃え、高度医療への対応を謳うことでさらに多くの患者を集めることが可能となるでしょう。その結果、「勝ち組」院長と「負け組」院長の格差はさらに広がって行くことになるかもしれません。
飼い主と動物病院とのトラブルが増えている
「ペットは大切な存在である」という飼い主の思いは、獣医療サービスの受益者としての権利意識を目覚めさせてもいます。すなわち、「高いお金を払っているのだから、獣医師にはそれに見合った診療をしっかりとやってもらいたい」という飼い主意識が高まり、動物病院の診療に対する不満や反感を増大させる原因にもなっています。
消費者紛争の解決をサポートする公的機関である独立行政法人国民生活センターは、オフィシャルサイトで、ペットに関する消費者からの相談が「多く寄せられている」ことを明らかにしており、「ペットサービス」に関する最近の相談事例を以下のように紹介しています。
・猫の目ヤニが心配で、動物病院で診察を受けたら8万円の高額な検査費を請求された。事前に検査費用の説明がなかったことは問題ではないのか。
・飼い犬が骨折し、動物病院で手術したが、病院側がミスを放置したため障害が残り、私も精神不安定になった。慰謝料を請求したい。
・治療を受けていた犬が死んだので、獣医師に原因を訊ねると弁護士が対応すると通知がきた。診療内容を確認したいがどうすればいいか。
・両親の飼い犬が嘔吐を繰り返したため獣医師を受診した。手術ミスで体調が悪化し、あと3日しかもたないといわれた。治療費15万円は払いたくないし補償も求めたい。
このような飼い主と動物病院との間の紛争が法廷で争われるケースも増えており、訴えられた被告、すなわち動物病院にとって不利益な判決が下されることも珍しくありません。特にいわゆるインフォームド・コンセントをめぐる紛争では、裁判所が獣医師側に対して厳しい姿勢を示す例が目立ちます。
一例を挙げると、平成20年9月26日の東京高裁判決は、獣医師がペットを診療する際に、治療方針などについて飼い主に説明する義務を負うことを正面から認めています。この判決は、前述した国民生活センターのサイトでも取り上げられており、獣医療に携わる者にとっては非常に重要な意味をもっています。
判決の内容を簡単にご紹介しておきましょう。
問題となった紛争の具体的なあらましは、飼い主が愛犬を動物病院に連れていったところ、獣医師が必要な検査と治療をせず、また、高次医療を受けるため転院させる必要があったにもかかわらずそれをしなかったために、結果的に右前脚を引きずるなどの後遺障害を負わせることになったというものでした。
飼い主は、診療契約における獣医師の債務不履行だとして、約431万円の損害賠償を求めました。裁判所は、「獣医師はペットの診療にあたり、飼い主との診療契約に基づいてその医療内容につき飼い主の意向を確認する必要があり、その前提として病状、治療方針等を飼い主に説明する義務を負う」と判示し、獣医師に義務に違反した点があったとして飼い主の請求を認めました。
このように動物病院側に対して厳しい判決が下される趨勢の中で、飼い主の権利意識は高まる一方です。ささいなトラブルであっても、動物病院が訴えられるおそれがあることを意識し、「飼い主ともめていることが広く世間に知られてマイナスのイメージがつく」「敗訴したときに賠償金の支払い義務を負う」などといったダメージを受けないよう、訴訟リスクに対して十分な対策を講じることが求められているのです。
税理士
百瀬弘之