脱サラし、小規模デイサービス「東雲(しののめ)」を経営する大輔。返済のリスケジュールと追加の融資を頼むため、長年付き合いのある銀行を訪ねたところ、「当行からの追加融資は難しい」と突然の死刑宣告を受ける。原因は入居者の減少にあった。隣町にできたデイサービス「えんじゅ」に人が流れ、9割近かった稼働率は4割にまで落ち込んでいたのだ。父が始めた事業を潰してしまうかもしれない、と焦燥感に駆られる大輔だったが……。 ※本記事は、書籍『ストーリーで学ぶ 介護事業共感マーケティング』(幻冬舎MC)の第1章を一部抜粋したものです。高齢者施設や障碍者施設等、福祉全般の経営コンサルティングを手掛ける藤田直氏の解説と併せてお読みください。

入居者が集まれば、みんな幸せになるのだろうか

大輔の父が入所している住宅型有料老人ホームは、実家から車で1時間ほどの静かな場所にある。ちょうど昼食前の検診が行われており、終わるまで大輔は食堂で父を待つことにした。

 

父が入所しているこの老人ホームは、まだ元気な頃に彼自身が選んだものだった。大輔に迷惑をかけまいと、父は自分の老後について早くから計画を立てていた。

 

年金の範囲で入所費用を賄える事業所は、建物は古いがスタッフは皆親切そうだ。大輔も年配の女性理事長と話をしたことがある。利用者思いの温かい人柄が信頼できた。

 

──しばらくして父がスタッフに付き添われ、食堂にやって来た。彼が座ると、スタッフは食事を準備してくれた。「仕事はどうしたんだ?」父はいつもと変わらぬ様子だった。「今日は日曜日だから休みだよ」「ああ、そうか……今日は日曜日だったな」そう言うと父は震える右手でスプーンを持ち、ゆっくりと皿に盛られたカボチャの煮つけを口に運んだ。どうにかこぼさず咀嚼(そしゃく)し、カボチャを飲みこむ。それを数回繰り返したところで、力なくスプーンを置いた。

 

「おいしくないの?」「うまくはないわな。冷たいし、味もうすい」父の声の大きさに食堂の視線が集まる。近頃はずいぶんと耳が遠くなってきている。ちょうど職員たちもいたので、まさか聞こえてはいないだろうと思いながらも、職員らしき集団に向かって大輔は引きつった笑みを向けた。「たまには松風亭のビフテキでも食いたいね」

 

松風亭は大輔の家の近くの洋食屋だ。父が元気な頃はよく家族で食べに行った。そこのビフテキは厚切りで、たしかにおいしかったが、今はもうない。

 

(食事は、もう少しひんぱんに差し入れでもしよう)そんなことを考えながらふと食堂を見渡すと、昼時だというのに空席が目立った。それで老人ホームの食事がおいしくない理由は、大輔にも察しがついた。

 

「東雲」と同じである。入居者が少ないのだ。

 

どんなにスタッフが温かくても、入居者が少なければ、必然的に老人ホームの利益は少なくなる。なんとか食費を抑えて経費を圧縮しようとしているのだろう。栄養面については規定があるから、味や新鮮さを犠牲にして、安価な食材を探すことになる。

 

「あら佐藤さん、もうおしまい?」食堂を巡回していた年配のスタッフが大輔の父に声をかけた。「あまり腹が減ってなくてね」「息子さんが来てくださって、良かったですね」「何言ってるんだい。日曜日だってのに、こんなじいさんとばあさんしかいない所に来るなんて、心配でならないよ。ほかに行く所がないのかね」何気ない会話を楽しむ父の様子を見て、大輔は少し安心した。スタッフとはうまくいっているようだ。

 

「……『東雲』はどうだい?」ヘルパーが去ると、父が訊ねた。「順調だよ、何も心配ない」「ワシは藤堂さんのことが気がかりでね」藤堂は父が経営をしていた頃から通っていた品のいいおばあさんである。「藤堂さん、相変わらず元気だよ」「そうか、良かった」「この間、藤堂さんのお孫さんがご両親とデイに来て、すごく嬉しそうにしていたよ。小学生の誠也くんっていうんだけど、仕事の関係でずっと上海にいるんだってさ。だからなかなか会えないんだって……」

 

二人でしばらく話をしていると、老人ホームには珍しいスーツ姿の男性がこちらに近寄ってきた。「あの、お話中のところすみません。ちょっといいですか?」見たところ年齢は30代後半。大輔とそう変わらなそうだったが、初対面の人にいきなり話しかけることを躊躇(ためら)わない強引さは、大輔とは正反対の性格のようだ。「先ほど、こちらの食事がおいしくない、と言ってましたよね?」そう言われて大輔はぎょっとした。まさか聞こえていたとは。

 

「い、いえ。そんなことは」「あ、いやいや。突然すみません。私、神崎と申します。介護事業や福祉事業などのコンサルティングをやっている者で、たまたま今日はここの依頼を受けて現場を見にきていたんです」「は、はあ」「入居者の生の声を聞きたいと食堂に寄ったところ、率直なご意見が聞こえてきたのでつい。すみません、いきなり失礼でしたね」「い、いえ。父がいつもお世話になっております」

 

言った後に的外れな答えであることに気づいたが、神崎は意に介していないようだ。着ていたスーツの内ポケットから一枚の名刺を取り出すと、大輔に差し出した。「もし何かお困りのことがあれば、こちらにご連絡ください」「あ、どうも」もらった名刺の名前の上には「福祉事業経営コンサルタント」と書いてある。

 

「お父様ですか?」「ええ、父です」父は無表情のまま座っている。神崎は父の方を向くと言った。

 

「先ほど食事がおいしくない、とおっしゃってましたよね?」「ああ。このカボチャがな、デカイもんでちと飲み下しづらくての。それとたまには厚切りの肉が食いたいなと言ったんだ」「なるほど、そうでしたか。貴重なご意見をありがとうございます。いただいたご意見は今後のサービス改善に役立てさせていただきます」

 

神崎と名乗る男は素早くメモを取ると、左の頰に手を当てて何かを考えている様子だった。どうやら目的のためには一直線に物事を進めるタイプのようだ。

 

「あの……。食事は改善していただけそうでしょうか?」大輔の勇気を振り絞った質問に対して、神崎は真っすぐに向き直って言った。「それはまだ分かりません。よくいう話ですが、お金がなければ知恵も出ない」「えっ?」一瞬、悲しそうな表情を浮かべた後、神崎は笑って言った。

 

「だからこそ私のような人間が呼ばれたんですけどね」その意味がとっさに分からず大輔が黙っていると、神崎は続けた。「もしかしたらまたどこかでお会いするかもしれませんね。では、私はこれで」

 

そう言うと大輔の返事も待たずにさっと踵を返し、神崎と名乗る男は老人ホームの事務室の方へと足早に去っていった。

 

◆◆

 

(一体何だったんだろう?)結局神崎と名乗る男は一方的に話しかけてきて、自分の名刺を渡すと去っていってしまった。父の食事が済んだので、部屋に戻りしばらく話を続けていると、いつの間にか窓の外は日が暮れだしていた。高齢になった父を見ていると、大輔はどうしても父に「東雲」が危機だとは言えなかった。暗い気持ちを引きずりながら父に別れを告げ、大輔は老人ホームを出た。

 

春を待つ2月の夕方はまだ寒かった。駐車場をまたぎ、老人ホームの門を出て振り向くと、3階建ての建物は灯りのついていない窓が多い。父が選んだだけあって、ホームのスタッフは親切だし、建物はしっかり清潔に保たれている。でも、その魅力は建物から一歩外に出たらまったく伝わってこない──もし、すべての部屋に灯りがともっていたら、入所者も職員も経営者もみんな幸せになるのだろうか。すべての部屋に灯りがついていたら、父はあのいかにもまずそうな食事を食べなくても済むのだろうか。

 

「お金がなければ知恵も出ない……か」それは父の入居するこの老人ホームだけではない。自分の経営する「東雲」もまた同じである。そう考えると、なんだかさっきの男に自分のことを見透かされたような気がして、大輔ははっとした。

 

高齢の父に事業の危機は伝えられない
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ストーリーで学ぶ 介護事業共感マーケティング

ストーリーで学ぶ 介護事業共感マーケティング

藤田 直

幻冬舎メディアコンサルティング

介護事業を始めれば、すぐに利用者が集まる時代は終わった――もはや「マーケティング」なしでは生き残れない。 廃業寸前の介護施設「復活ストーリー」から学べ! 高齢化が進む日本介護事業を始めれば、すぐに利用者が集…

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