「ひな人形」の代わりに「ローランサン」?
長年、画商をしてきて、私には忘れられない思い出がいくつかあります。私がこの業界に入って間もない頃の話です。あるご年配のご婦人が店にいらっしゃいました。
お声をかけると「ローランサンの絵はありますか?」と尋ねてこられました。私が「ローランサンをお探しなのですね」と言うと「ええ、孫に買ってやろうと思って」とおっしゃいます。「お孫さんがローランサンをお好きなのですか」と聞くと「孫は生まれたばかりの赤ちゃんですの」と言われます。
どういうことかとお聞きすると「嫁いだ娘に女の子が生まれたんだけど、本来はひな人形を買ってやるでしょ。でも娘の住まいはマンションでひな人形を飾るスペースもないし、出し入れも大変でしょ。だからひな人形の代わりにローランサンの絵を持たせてやろうと思って」とおっしゃいます。
また「私はローランサンが好きなので、孫に持たせてやれば、私がいなくなっても持たせてやったローランサンの絵を見て私のことを思い出してくれるんじゃないかと思ってね。それにローランサンを見ていて絵の好きな子になってくれるといいでしょ」と言うのです。
結局、その方はマリー・ローランサンの描いた美しい女性の絵を購入されました。大人になったお孫さんは、きっとおばあちゃんの若い頃をその絵に重ねて見ることでしょう。
◆絵はお金で買えるが、お金では買えない絵もある
いささか謎めいたタイトルをつけてしまいましたが、よく考えれば当たり前のことです。すべてが一点ものの美術品である絵画は、所有主がその作品を売りに出さなければ、決して買うことはできません。
そして『モナ・リザ』や『アヴィニョンの娘たち』のように、ひとたび公的な美術館の所有物となってしまえば、半永久的に売りに出されることはありませんから、個人コレクターがそれを入手できる確率は、天文学的に低くなります。
絵画とは、お金で売買される資産である以前に、全人類共通の文化遺産であり、何人(なんぴと)たりとも、札束を積み上げて横面をひっぱたくようなやり方で、自分のものにすることはできないのです。
金銭価値は美術品にとっては本来、副次的なものです。繰り返しになりますが、美術とは文化であり、文化は決してお金に換えられるものではありません。
ヨーロッパには、家の宝として美術品を子々孫々受け継いでいく伝統があるそうです。私も、せっかく購入していただいた絵は、末永く大切にしてもらえたらうれしいと、いつも願っています。
以前、たしか新聞だったと思いますが、どこかでこんな話を読みました。細部には記憶違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。
今から30年ほど前の話です。とある外交官の奥様が、ご主人の仕事の関係でドイツに在住中、現地の病院で出産することになりました。無事に出産を終えた奥様は、同日に出産されたドイツ人のご婦人と相部屋で、休んでいました。
するとそこへ、日本から両親が新しいベビー服やおむつを買ってお祝いに駆けつけてくれたそうです。新しいベビー用品がベッド脇に積み上げられて、奥様は幸福に酔いしれました。一方、同室のドイツ人のご婦人のもとにも、ご両親が訪れてベビー用品を置いていかれました。
それは、清潔に洗濯されてはいたものの、使い古されて、少々黄ばんだベビー服やおむつだったそうです。見るともなしにそれらが目に入った外交官夫人は、ドイツの人は倹約家なのだと感心するとともに、真新しいベビー用品を揃えてもらえる自分に、ちょっとした優越感を覚えたそうです。
ところがその後、同室のドイツ人のご婦人が、ベビー用品を使い始めたのをよく見ると、ベビー服やおむつの一つひとつに、家紋が刺繍されていたそうです。それを見た途端、新品のベビー用品が色褪せて見え、得意になっていた自分が恥ずかしくなったそうです。