考えない、考えさせない学校の授業
今、小学校では、どのような授業が行われているのでしょうか。
一般的に理想と思われているのは、次のような情景でしょう。
先生が板書をする。それを子どもたちがノートに書き写す。板書が終わると、先生がその内容について説明をする。子どもたちは、説明をじっと聞く。時おり、先生が質問する。子どもたちが競って手を挙げる。指名された子どもは、先生が想定していた通りの答えを返す。先生は「わかったね」とやさしく微笑む。子どもたちは「ハイ」と元気良く応える。そして、今習った方法の応用となる練習問題に取り組む――。
教わったばかりの内容ですから、練習問題はほとんどの子どもが正解できるしょう。そして、同じような練習問題やドリルが宿題に出されるのです。宿題をまじめにやる子どもとサボる子どもの間で少し差は出るでしょうが、全体的に一定の知識を得ることができます。
もちろん、現実の小学校は、この理想とは大きくかけ離れているのかもしれません。授業中に先生の許可もなく教室をうろうろ歩きまわる子どもがいると聞きます。新人の先生などは、そういった状況に耐えられず、すぐにやめてしまう人も多いようです。そのため、特に手がかかる小学校1年生では、担任の先生が二人いて、一つの教室を二人がかりで面倒を見ている学校もあるそうです。
とはいえ、先生方の多くが、理想の授業を求めていることだけは間違いないと思います。そのために、授業前にはしっかりと準備されるはずです。どうすれば、わかりやすく説明できるかを考え抜かれるでしょう。
算数を始めとして各教科の指導法に関する参考書が、世の中にはたくさんあります。熱心な先生なら、そんな参考書を読んで、副教材などを用意することもあるはずです。
すべては「わかりやすく教える」ためにです。
そんな先生の授業は、おそらく、とても「わかりやすい」はずです。手を変え品を変え、最近では小学校の授業でもPowerPointなどのプレゼンテーション用のパソコンソフトで作ったスライドを使い、よりビジュアルにわかりやすく解説する先生もいます。スライドの一部にはビデオが使われることさえあります。
もう至れり尽くせり、あの手この手を使って、何とか子どもたちにわかってもらえるよう努力する。先生たちの努力には、本当に頭が下がります。
教育熱心な先生ほど、授業中にたくさん話をするはずです。科目によっては、最初から最後まで淀みなく、先生が話をして終わる授業が理想、と考えられているケースもあるでしょう。
そんな先生にとって、自分の授業がうまくいっているかどうかの目安の一つが、子どもたちのうなずきです。子どもたちが自分の話を興味津々に聞いていること、聞いた内容を理解していること。これらを測るバロメーターが、子どものうなずきなのです。教えたばかりの内容を定着させるための練習問題の結果も重要な指標です。
先生たちは、こうした授業を限られた時間の中でこなさなければなりません。しかも文部科学省の基本的な方針によれば、以前の『ゆとり教育』の反動もあって、教えるべき内容が増えています。先生には「わかりやすく」教えることに加えて、「効率よく」教えることも求められているのです。じっくりと時間をかけて教えたりしていては、一年間で教えるべき内容を消化しきれない恐れがあります。
だから、さらにわかりやすさを重視する。つかえたり、ひっかかったりしていては、なかなか前に進むことができないために、子どもたちが聞いた瞬間にわかるレベルまで噛み砕いて説明する。わかりやすさのレベルは、理解力のある子どもを基準とするのではなく、学力的に平均の少し下ぐらいの子どもたちを対象にするでしょう。その方が、全員がより理解しやすくなるはずですから。
もちろん熱心な先生であれば、授業の途中でも子どもたちがわかっているかどうかを何度も確認するはずです。
先生に「わかりましたか?」と聞かれた場合、これに対して子どもたちは、どのように応えるでしょうか。よほどひねくれた子どもでなければ、ほとんどが「わかった!」と元気よく反応するのではないでしょうか。そもそも、子どもたちのために一生懸命にわかりやすい授業の準備をする先生ですから、普段から子どもたちにも丁寧に接しているはずです。子どもたちからしても、わかりやすく教えてくれる「良い」先生といえるでしょう。中には、少しばかり成績の悪い子どもがいたとしても、先生のクラスは「良いクラス」として、校長先生や保護者から評価されるでしょう。
でも、それで本当に良いのでしょうか。
こうしたわかりやすい授業が、「考える力」を育てることにつながるでしょうか。決して、そうはならないと思います。どうして日本の教育は、本来あるべき姿とはかけ離れた内容になっているのでしょうか。
明治以来「伝える」ことに終始してきた日本の学校教育
「考える力」が伸びない背景には、現在の学校教育が抱えるシステム上の問題がありました。なぜ、日本の学校教育はそのようなシステムになってしまったのでしょうか。それを理解するために、これまで日本の教育が歩んできた歴史を少し振り返ってみましょう。
江戸時代、子どもたちに行われていた教育といえば、寺子屋での「読み・書き・そろばん」、例えば『論語』などの漢文を素読みし、書道を習い、そろばんの練習をするといったものです。当時の社会では、何かにつけて証文を書いていたと聞きます。お金の貸し借りや商売上の取り引き状、何かトラブルがあった時の詫び状など。それらの書面を理解したり、自分で作ったりするためには読む力と書く力が必要だったのでしょう。
また、江戸時代の通貨には金貨や銀貨が使われていました。ただし同じ金貨でも慶長小判と元禄小判では、その価値が微妙に違うため、これらを交換する際には煩雑な計算をする必要がありました。しかも、元禄時代には幕府が金1両を銀60目に相当すると定めるなど、単位も10進法のような分かりやすいものではありませんでした。こういった複雑な貨幣体系での商取引で計算を間違わずに早く行うために、そろばんによる計算力が求められたのです。
ところが明治維新を機に、日本の教育制度は一転します。「文明開化」と呼ばれるように、時の政府は西洋文明を可能な限り早く取り入れ、それを真似ることで、日本文明を開化させようとしました。真似るは学ぶにつながります。欧米の近代思想や科学技術を効率的に学ぶことが、最重要課題となったのです。
こうした考え方に基づき、明治24(1891)年に交付された「小学校教則大綱」には、算数について次のような一文があります。
「算術ハ日常ノ計算ニ習熟セシメ、兼ネテ思想ヲ精密ニシ、傍ラ生業上有益ナル知識ヲ与フルヲ以テ要旨トス」
ところが、実際には計算に習熟することと、知識を与えることはしっかり守られたものの、思想を精密にする目標は軽視されたように思えてなりません。なぜなら、時の政府にとっては、西洋の優れた科学を子どもたちに学ばせることが最重要の課題でした。これを、現場で子どもたちを教える教師の側から考えれば「いかに効率的に教えるか」となります。
できるだけ早く知識を定着させるためにはどうすればよいか。疑問を持たないようにわかりやすく教えて、教えた内容を反復練習させることで、記憶に定着させる。つまり暗記を中心とした教育になります。これに対して思想を精密にするためには、子どもたちにじっくりと考えさせる必要があります。試行錯誤を重ねることで頭を使わせなければなりません。ところが、そんな悠長なことをしていては西洋諸国に追いつくことはできない。このような強迫観念に、明治時代の教育関係者はとらわれていたのではないでしょうか。
明治維新以来、基本的に日本の学校は、「何も知らない」子どもたちに、「知るべきこと」を教える、あるいは伝える場として機能してきたのです。同じ伝えるならできるだけ効率よく教える。時間をかけずに効率的に教えるこの教育法が、その後、現代の教育システムにも色濃く反映されているのです。
こうして効率的教育が追求されてきた結果、知識を効率的に教えるシステムとして日本の教育は、世界でもトップレベルに上り詰めました。西洋に追いつき追い越すためには、それが最も手っ取り早い方法だったのです。
追いつき追い越すことは勤勉でさえあれば、それほど難しいことではありません。何しろ見本があるのです。例えば工業製品などでも、戦後しばらくの間は徹底したリバースエンジニアリングが行われてきました。すなわち、アメリカ製の冷蔵庫を買ってきてバラバラに分解し、構造と設計の意図、機能などを学び、そこに改良を加えて組み立て直す。生真面目な日本人には、とても合うやり方です。
ところが、この日本のお家芸ともいえるやり方に、本質的な思考力は必要ありません。優れたものから学び、そこにちょっとしたアイデアを加えたり、不備を改善したりする。日本独特のやり方で、例えば家電業界などは一時、世界のトップを日本企業が独占するに至りました。けれども、お手本を改良する方法には限界があります。画質の優れたカラーテレビを作ることはできても、カラーテレビそのものを生み出すことはできません。
おそらくはこれが教える教育の限界なのです。確かに知識を教える技術は進化しました。その結果、日本の子どもたちの平均的な学力は、世界でもトップレベルに到達しています。けれども、皮肉なことに、そうした教育を受けた日本の子どもたちが大人になると、なかなか世界には太刀打ちできないのです。世界的な発明や、世の中を変えるような製品やビジネス、例えばコンピュータやスマートフォン、あるいはインターネットを使った革新的なビジネスも、日本からは生まれてこなかったのです。
今こそ私たちは、もう一度「小学校教則大綱」の二つ目の課題「思想ヲ精密ニ」することに立ち返る必要があります。教育は、ここから再スタートしなければならないのです。
江藤 宏
関西教育企画株式会社 灘学習院 学院長