習近平政権は鄧小平以来、中国の外交政策を特徴付けてきた韬光養晦(タオグアンヤンフイ)政策――能力を隠して目立たない、貧困問題を抱える途上国としては、外交より国内政策に専念すべきとの方針――を転換する中で、従来にも増して、歴史的に政治外交政策の一環だった対外援助政策を積極的に活用する姿勢を強めている。今回は、中国の「対外援助」の原則を歴史的な観点から検証する。

1949年の建国以来、独自に対外援助を行ってきた中国

中国は1949年の中華人民共和国建国以来、世銀等に代表される国際的な枠組みの外で独自に対外援助を行ってきた。「援助白皮書」とその他中国側文献(参考文献2他)を通じ、歴史の一端(主に建国初期〜70年代)を紐解くと概ね次の通り。援助がその初期の段階から政治外交政策と一体で認識されており、それが現在の援助基本原則に繋がっていることがわかる。

 

建国後の1950〜85年、中国外交文書によると、総額411.81億元、国家財政支出の1.7%にあたる対外援助が行われた。うちプロジェクトファイナンスと技術援助が158.72億元(38.54%)、物資援助225.74億元(54.82%)、現金援助27.35(6.64%)だった。

 

75年までの主要援助先は朝鮮、ベトナム、アルバニアの3か国で、その他、モンゴル、カンボジア、ラオス、アルジェリア等一部アフリカ諸国に集中、この頃までは一方的な援助が国内経済にとって負担となり、その後互恵原則が重視されるようになった。

 

1950〜70年代、中国は58〜60年の「大躍進政策」、66〜77年の「文化大革命」、60年代初の大飢饉や60年代末の自然災害等、国内経済が困難な時期を経験しているが、中国側文献ではその間もこれら諸国への援助を継続したことが強調されている。大飢饉時の62年初、対外援助承認残高は69億元とほぼ対外債務と同金額まで増加し、その後それを上回った。当時の援助を主要援助先別に見ると以下の通り。

 

【対北朝鮮】

1950〜53年の朝鮮戦争期間、北朝鮮側を支援した中国は総額7億2925万元の援助を供与。内訳は物資、現金供与、生活必需品の無償提供が主。さらに53年11月、金日成主席(当時)訪中に合わせ、8億元の無償援助を供与。その後援助は58〜63年の中国経済が困難な時期も継続、無利子融資で紡績など各種工場の建設を支援。朝鮮側が返済できない場合は事実上返済期限を無期限延長。70年、6億元無償軍事援助協定を締結。以降、石油提供、石油パイプライン敷設、(まだ中国のほとんどの都市で地下鉄がない時に)平壌地下鉄建設などを支援。

 

【対ベトナム】

1950年1月、中国は越民主共和国(北越)の承認第1号国に。50〜54年総額1.76億元を援助。55年7月ホーチミン初代主席訪中時に8億元の無償提供(物資、インフラ、人材派遣等。北朝鮮金日成訪中のケースと同額)を約束。55年中国援助越南議定書付属書は「中国内の穀物需給ひっ迫も顧みず、越に3万トンの米や300トンの小麦粉などを提供」と記載。71年(36.1億元)、72年(27.98億元)、73年(25.39億元)の軍需物資を含む無償援助協定締結。越戦争終結(75年)後の統一された越への初期支援も含め、78年までに援助物資総額は軍事関連も含め200億ドルにおよび、これらの大半は無償援助、ごく一部が無利子融資。対越援助はそれまでの中国の対外援助の中で最大かつ最長。

 

 

 

【対アルバニア】

アルバニア(「ア」)への援助も、中国自身が困難な時期に継続された点が強調されている。1954年の100億元強の援助から開始。当時中国の一人当たり所得100元弱に対し、アは4000元強。61年頃から中ソが対立する中で、アはソ連批判を始め中国へ接近。60年代初、ソ連の援助プロジェクトをすべて引き継いだ。78年6月までに請け負ったプロジェクトは、鉄鋼、化学肥料を始めとする各種分野で142、軍需関係の援助も多く金額も膨大であったという。中国側文献では、アはこうした援助を自らの「欧州における社会主義の唯一の明灯」という位置付けから当然の事とし、返済など全く考えていないようだったとしている。60年代末、中国が災害等困難な時期も継続、5万トンの食糧緊急援助を行った。70年代に入り対ア関係は冷却、アはなおも援助拡大を要求したが中国は援助を縮小。アはこれを不満として対中石油・アスファルト輸出を拒否、76年ア労働党大会で対中批判を開始、78年に援助は終結。

 

【対アフリカ】

56年エジプトで開始、11月2千万スイスフラン無償援助。次いでアルジェリアに7千万元強の物資や現金無償提供。「大躍進政策」下の困難な時期、ナイジェリア等の要請を受けて穀物等を提供。アフリカでの最も有名なプロジェクトとなったタンザニア〜ザンビア鉄道建設は当初、西側とソ連に援助要請するも拒否され中国に依頼。中国は文革中で混乱していたが引き受け(無利子融資9.8億元)、70年建設開始、76年5月開通。70〜76年、対アフリカ援助18.15億ドル。その後80年代半ばまでに、援助を通じ44か国と外交関係が密接になり、2000年代から資源国を中心に援助供与が最も活発な地域に。

 

この他、1956年モンゴルと経済技術援助協定締結、56年1.5億元、58,60年ターンキー方式での長期低利融資、64年までに火力発電、各種工場建設。56年カンボジアとも協定締結、56,57年、800万ポンド相当の物資無償援助、援助資金の使用に干渉せず、条件を付けない援助のモデルとなった。ラオスには59〜79年10億元援助、うち5000万元は外貨融資、残りは無償援助。

周恩来首相時代に公表された「8項目原則」が基礎に

上記から、第2次大戦後〜冷戦時代を通じ、中国の援助政策が帝国主義(米国)と修正主義(ソ連)に対抗する重要な政治手段という位置付けであったことがわかる。白皮書で示されている現在の援助原則の基礎は直接的には、1963〜64年、周恩来首相(当時)がアフリカ10か国歴訪時公表した「8項目原則」に遡る。

 

すなわち①平等互恵、②援助にいかなる条件もつけない、③できる限り被援助国の負担を軽減、④被援助国の自力発展を支援、⑤高い投資効率、⑥中国製造業が持つ最良の製品・部品を提供、⑦被援助国の人材が技術を習得すること、⑧援助に携わる中国の専門人材は被援助国に特別な要求や待遇を要求しないだ。

 

こうした援助外交はその後、文革時の急進的な革命思想によってさらに強化された。文革前の62年、国内経済に注力することが優先で、援助は「実事求是(現実に基づいて問題を処理する)」と「量力而行」の原則の下に行うべきとした動きが見られたが(主要提唱者、中共中央書記で対外連絡部長だった王稼祥)、文革を主導した1人で毛沢東の腹心として有名な康生は、これを「三闘一多(帝国主義、反動派、修正主義と闘い、アジア、アフリカ、ラ米での人民闘争への援助を多くする)」を否定する「三和一少(帝国主義等の3勢力と融和し、援助を少なくする)」、「三降一滅(帝国主義等3勢力に投降し、革命を滅ぼす)」の動きとして批判した。

 

これを受け、王らの主張は退けられ、国内経済状況を無視して援助が拡大、援助額の対財政総支出比は社会主義建設の初期段階の第1次(53〜57年)、第2次5ヶ年計画(58〜62年)時の1%強から、63年以降次第に上昇、文革後期の72、73、74年は各々6.7%、7.2%、6.3%と自らの負担能力を超える水準まで上昇、70年代後半、経済技術協力協定の締結は31か国にのぼった。文革末期の75年、援助を圧縮する中央中共決定が発出され、援助の対財政総支出比を第5次5ヶ年計画期間(76〜80年)は第4次の水準6.5%から5%以内へ縮小し、年平均額を50億元とする目標が提示された。なお、王稼祥らは文革後の79年、その名誉を回復された(平反)。上述、援助白皮書11年版で明記されていた「量力而行、人力而為」原則の起源はここにある(14年版では「力所能及」)。

 

<主要参考文献>

1.「中国的对外援助白皮书」国务院新闻办公室、2014年7月、2011年4月

2.「新中国成立后对外援助30年」2014年7月11日付南方网

3.「中西不同方式引评说援外:中国有‘历史厚度’」2014年7月15日付环球时报

 

 

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