前回は、画家の人生の浮沈と絵画の価格がリンクする理由を解説しました。今回は、近代美術から現代美術へと変化をもたらしたフランスの芸術家・デュシャンの試みを考察します。

印象主義から始まったモダンアートの「冒険」

19世紀後半、印象主義(インプレッショニスム)から始まったモダン・アート(近代絵画)の冒険は、ポスト・インプレッショニスム、フォーヴィスム(野獣主義)、キュビスム(立体主義)、シュルレアリスム(超現実主義)を経て、近代の終わりにたどり着きます。

 

それは、キュビスムとシュルレアリスムの運動に参加したフランスの芸術家マルセル・デュシャンによってもたらされました。デュシャンが1917年に制作した作品『泉』は、街で普通に売られている陶磁器製の男性用小便器を横向きにして、〝R・MUTT〞という署名と〝1917〞という制作年を書き加えただけのものでした。

 

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この作品は、絵画や彫刻のようにデュシャンが自分の手を動かして作ったものではありません。デュシャンがしたことは、ただ男性用小便器を買ってきて、名前と制作年を書き込んだだけです。しかし、現代美術(コンテンポラリー・アート)の観点から見ると『泉』は立派な作品として成立しています。なぜならば、そこには「批評性」があるからです。

 

まず、デュシャンの『泉』は、通常は縦に置かれていて、正面からしか見られたことのない男性用小便器を、横向きにして、配管の外れた天辺の部分を正面に向けたことで「異化効果」をもたらしています。「異化効果」とは、わかりやすく言うと「小便器ではない何か別のものに見える」ということです。

 

現在『泉』のオリジナル作品は現存していませんが、写真を見ると、それはまるで、ちょっと変わった形の和式便器のように見えます。もちろん西洋には和式便器はありませんが、トイレのような何かには見えます。

 

しばらくして、見る人はこれが横向きの小便器であることに気づきますが、工業製品である陶磁器製の小便器が美術作品として展示されていることに戸惑いを感じるでしょう。また、水が流れ込む配管部分は外されていますが、それが正面を向いていることで、男性の小便の排泄器官のようにも見えます。そこにさらに、「泉」という天然の水が湧き出るかのような美しい名前がついていることにも違和感を覚えるに違いありません。

見る人を挑発・動揺させるデュシャンの『泉』

このように、デュシャンの『泉』は見る人を挑発し、動揺させ、なぜこれが「泉」なのだろう、そもそもこれは美術作品なのだろうかと考えさせることを目的としていました。

 

それまでも、美術作品の多くは、ただ現実を模写するだけでなく、芸術家による現実の解釈が加わっていました。だからこそ、鑑賞者に考えさせる効果を持っていたわけです。そしてデュシャンは「批評性」だけを目的とするならば、わざわざ自分の手を使って絵を描いたり、彫刻を彫ったりする必要はないと示したのです。

 

では、何が作品を芸術たらしめるのでしょうか―その問いに対するデュシャンの答えが、署名だったのです。たとえば、ピカソの署名があれば、絵葉書やメモ帳に描いたいたずら描きでも何十万円もの価値を持ちます。それと同様に、署名さえすれば、その作品は誰が作ったどんなものであっても作品として成立するとデュシャンは主張したわけです。

 

デュシャンの主張は、確かに一理あります。名前の売れた芸術家のサインに高値がつくことや、子どもの落書きのように見える絵画が〝芸術作品〞としてもてはやされることに対して、おかしいと感じていた人が大勢いたからです。

 

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しかし、ニューヨーク・アンデパンダン展に送られたデュシャンの『泉』は、展示を拒否されます。「無審査」の理念を持ち、出品手数料さえ支払えば誰でも作品を展示できるとうたわれたアンデパンダン展ですら、デュシャンの『泉』を受け入れることはなかったのです。もっと言えば、デュシャンはこの展覧会の委員の一人でした。にもかかわらず、『泉』は展示されることもなく倉庫にしまい込まれました。

本連載は、2017年4月28日刊行の書籍『「値段」で読み解く魅惑のフランス近代絵画 』から抜粋したものです。最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

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