「また帰りたくなったのかな」母からかかってきた一本の電話
「家に帰りたい。もう、ここにいたくない」
平日の夜、母・和子さん(79歳・仮名)から電話を受けた浩一さん(52歳・仮名)は戸惑いました。
和子さんは半年前から特別養護老人ホーム(特養)で暮らしています。
夫を亡くした後は一人暮らしを続けていましたが、転倒して大腿骨を骨折。退院後も歩行や入浴、排泄などで介助が必要となり、要介護3の認定を受けました。
浩一さんは車で約1時間の場所に妻と暮らしています。当初は在宅介護も検討したものの、平日は夫婦とも仕事があり、和子さん自身も「迷惑をかけたくない」と特養への入所を希望しました。
特養への新規入所は、原則として要介護3以上が対象です。和子さんも申し込み後、空きを待って入所しました。
最初の1ヵ月ほどは、「ご飯はまあまあ」「隣の人と話したよ」と電話で聞かされ、浩一さんも少し安心していたといいます。ところが、3ヵ月ほど経ったころから様子が変わりました。
「今日は何してた?」と尋ねても、「別に」と答えるだけ。面会を提案しても、「忙しいんでしょう」と話を切り上げます。
そして、その夜の電話でした。
「どうしたの? 何かあった?」
浩一さんが聞いても、和子さんはすぐには答えません。しばらくして、小さな声で「怒られるから」と口にしました。
「誰に?」
返事はありません。
「とにかく、家に帰りたい」
声は震えていました。
浩一さんは翌日、施設へ電話しました。職員からは「最近少し不安が強いようです」と説明されます。
入所したばかりのころにも和子さんが帰宅を口にしたことがあったため、浩一さんは「また家が恋しくなったのかもしれない」と考えました。
それでも電話の声が気になり、その週末に面会へ向かいます。居室に入ると、和子さんは以前より口数が少なく、職員が通るたびに廊下へ視線を向けていました。
そして、ベッドから車いすへ移ろうとしたときです。袖が上がった左腕に、青紫色のあざがありました。
「これ、どうしたの?」
和子さんは慌てるように袖を下ろしました。
「ぶつけただけ」
「どこに?」
再び黙り込んだ母を見て、浩一さんは電話で聞いた「怒られるから」という言葉を思い出しました。
