金に目がくらんだ人の哀れな末路
神話や寓話といった物語の世界ではよく、「お金と道徳の綱引き」は、金に目がくらんだ人の哀れな末路という形で表現されてきました。たとえば、ギリシア神話に登場する豊穣の神に「何でも望みを叶えてやろう」といわれたミダース王が、「私の手に触れるものすべてが煌めく黄金になるようにしてほしい」と願ったというエピソードが有名です。ミダース王の願いは叶えられ、小枝も石も、触れると金に変わります。しかし、食事をしようとしても、手に取ったパンも金になり、葡萄酒を飲もうとしてもドロドロの金になってしまう……。ミダース王は困り果て、神に「もとに戻してほしい」と泣きついたという物語です。
また、同じく古代ギリシアに起源をもつとされるイソップ童話には、川から現れた神がきこりに対し「あなたが落としたのは金の斧か」と尋ねる物語があります。
聖書ではNGでもユダヤ人が金貸しになれた理由
宗教や学問の世界では、この「綱引き」は「利子を取ることは正当化されるか」という問題として古くから論じられてきました。
アリストテレスは、利子を取る貸付を「自然に反する行為」として厳しく批判しています。彼によれば、貨幣そのものは「交換の媒介物」に過ぎず、「子を産まないもの」です。それゆえ、貨幣から貨幣を生む(利子を取る)行為は、生命のないものから生命を生み出そうとするくらい、極めて不自然な行為だと見なされたのです。また、キリスト教とユダヤ教の共通の聖典である旧約聖書には、「貧しい同胞から利息を取ってはならない」と規定されています。ユダヤ教もキリスト教も、同胞間での利子を禁じていたのです。さらに、キリスト教の聖典である新約聖書には、お金に対するもっと厳しい教えもあります。
「人は神と富(マモン)に兼ね仕えることはできない
どちらも強烈な言葉ですね。ここで登場する「マモン」という言葉は、強欲の悪魔を象徴しています。このことから、「マモニズム=拝金主義」という言葉まで生まれ、侮蔑の対象となりました。
このように、金銭や富への執着は魂を腐敗させるというのがキリスト教の基本的な価値観でした。
「お金サイコー!」という態度は、はるか昔から後ろめたいものだったのです。
その後、利子をとる行為が道徳的にNGとされる建前は1,000年以上も続きました。しかし、これだけ様々な方法で「利子をとるのは悪だ!」と強調しなければならなかったということは、裏を返せば、ずっと昔から利子によって荒稼ぎをする人が後を絶たなかったということの証です。実際、キリスト教の教えが社会の絶対的なルールとなっていた中世ヨーロッパにおいても、今から見ると屁理屈ともいえる解釈で教義をハックし、実質的には利子をとる人々が出てきました。また、13世紀には「商業を活性化する」という利子の社会的意義に着目し、それを正当化する神学者も登場するほどでした。
これらの事実は、人類がお金に対して抱くアンビバレントな感情―もっとお金を手に入れたいが、道徳的でもありたい―の表れだといえるでしょう。
