子育てに奮闘する中で、「うちは愛情たっぷりだから大丈夫」「子どもの気持ちを理解することが一番」と考えていませんか? しかし、ロバート・キーガン氏は、現代の親にはそれだけでは乗り越えられない、大きな壁があると警鐘を鳴らします。本記事では、同氏著『ロバート・キーガンの成人発達理論――なぜ私たちは現代社会で「生きづらさ」を抱えているのか』(英治出版)より、彼のユニークな「オートマ車とマニュアル車の運転」というたとえ話を通し、多くの親が見落としがちな、子どもを真に導くために必要な「意識の次元」について詳しく解説します。
多様化する社会で「現代の親」が直面する、子育ての「新たな課題」【ハーバード大学名誉教授が警鐘】 (※写真はイメージです/PIXTA)

例:「AT車」と「MT車」の運転能力の話

どういうことかを明確にするために、例を挙げよう。第3次元の意識でペアレンティングをする能力と第4次元の意識でペアレンティングをする能力との違いは、オートマ車(AT車)を運転する能力とマニュアル車(MT車)を運転する能力との違いにたとえることができる。AT車を運転する人のほうが優れている、あるいはMT車を運転する人のほうが優れていると言うのは、どう考えても無理がある。また、どちらかのほうが、より優れた(安全な/誠実な)ドライバーだとも、少なくとも最初からは言えない。

 

一方で、この能力は比較不可能だとか、(ジェンダー、学習スタイル、性的指向などと同じく)人間の多様性の1つのあらわれであり、公正に比べることのできないもの、認めて尊重するほかないものだとみなすこともできない。

 

だが実は、この2種類のドライバーには、明確に線引きできる関係が存在する。ある状況においては、一方がもう一方より優れていると言えるのだ。すなわち、MT車のドライバーは皆、AT車も運転できるが、AT車のドライバーは誰もがMT車を運転できるわけではない。MT車のドライバーのほうが優秀というわけではないし、ドライバーとして腕が上というわけでさえないが、一方で、AT車のドライバーの多くが運転できない種類の車を運転できることは間違いない(その逆は言えない)。

 

より正確に言えば、MT車のドライバーはギアチェンジという重要な操作に対してみずから責任を負うことができるが、AT車のドライバーは負えない。AT車のドライバーはこの側面を、自分の外にあるもの(エンジン)、自動でギアチェンジを行うものに委ねることになる。だから何なのか。いや肝心なのはここからだ。

 

自分でギアチェンジできないAT車のドライバーは車というより大きなコンテクストの一側面に頼ってギアチェンジを行うわけだが、その事実は、いつどこを見てもAT車ばかりで、しかも問題なく走っているなら、実のところ全く問題にならない。きちんと機能するAT車を誰もがいつでも使えるなら、AT車のドライバーとMT車のドライバーの違いは、全く問題にならないだけでなく、違いそのものが見えなくなるだろう。その違いに、私たちは気づかなくなるのだ。

 

今まで生きてきてAT車を利用できなかったことがない人たちは、当然ながら世界はこういうものだと思うだろうし、AT車をいつでも利用できることは、世界に関する真実だと思われている特徴の1つだという事実を意識することもない。

 

これに対し、もし世界にAT車があふれていなければ、そしてもし世界が、運転するという行為には自分でギアチェンジすることがつきものだと人々が考える世界であるなら、それならば取るに足りない特徴だったAT車しか運転できないことが、きわめて重大な特徴になる。

 

結論として、2種類のドライバーの違いが車の性能の違いでないことは明らかだろう。たびたびギアチェンジする必要があるのも、どちらの車にも共通だ。違いは、ギアチェンジを行う人もしくはモノにある。そして、ギアチェンジ自体は恒常的なものであり、車の操作という領域につきものである。