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大人は10代の子どもになにを期待しているのか
編集注(参考は書籍の60ページ)
意味づけの形態(フォーム)
ものごとの理解の仕方、評価の仕方。「形態(フォーム)」という表現は「ものごとの理解の仕方には一定の型がある」ことを示唆している。
「次元のマインド・第2次元のマインド」
多種多様なものごとの意味構築をする際に働かせている、ある共通の原理のこと。キーガンは原理には次元があると考えており、より複雑な原理を「高次元のマインド」と呼んでいる。
第2次元のマインドは、「持続的カテゴリ」と呼ばれ、自己や他者に関わらずあらゆる具体的なものごと・要素を1つの集合に沿って意味構成する原理を指す。第3次元以降のマインドについては「『持続的カテゴリを超えた理解』が必要である」と述べ、複数の持続的カテゴリを横断した、いわば複数の評価軸を意味構成に挿入できる状態、としている。
ティーンエイジャーに対しては、どうやら重大性の認識なしに要求がなされているらしい。両親や学校の先生からも、雇い主、近所の人、サイコセラピスト、町の人たち、さらには同世代の子どもからも、精神的(メンタル)意味構築という特定の原理、すなわち私が「第3次元の意識」と呼ぶものを持つことを求められているようなのだ。
ただしこれは、現代の文化を生きるティーンエイジャーについての、語られることのない話の半分にすぎない。残る半分はこれだ。13歳になった、年頃になった、反抗期に入ったなど表現がどうであれ、思春期を迎えたと思われる段階の子どもはふつう、さまざまな経験をこの次元の複雑さで意味構成していない、という話である。実際、私の研究を含め、マインドを主眼にしたさまざまな研究が正しければ、通常の精神発達としては、マインドは12歳~20歳の時期に、第2次元から第3次元へ徐々に変化すると考えるほうが理にかなっている。
これはつまり、思春期の大半において、子どもは大人の文化からの強い期待に応えられないほうがふつうだということである。このような2つの話によってもし大きな問題が生み出されるなら、期待にまず応えられない子どもを、私たちはどのように理解すればいいのだろう。この問いに対する答えは、以下の問いにどう答えるかで変わるだろう。
「いったい、大人はどのような種類のことを10代の子どもに期待しているのか」
もし、主として行動に関して期待していると考えるなら、それに応えられない子どもは、適切な行動ができないとか能力がない、つまり、するべきことをしようとしない、あるいはできないとみなされるだろう。もし、主として感情に関して期待していると考えるなら、それに応えられない子どもは、情緒不安定だとか心の病にかかっているとみなされるだろう。
どちらの考え方であれ問題なのは、期待に応えられない子どもが、期待に応えられる子どもと同様の理解の仕方をしていると、大人が無意識に思い込んでいる点だ――期待に応えられない子どもは、そういうマインド(理解の仕方)をなぜかきちんと作用させることができていない、あるいはそういうマインド(理解の仕方)がどういうわけか整っていないだけなのだが。結果として、期待に応えられない子どもは、何をやっても駄目だとか、出来が悪いとか、頑固さや能力不足や不安定さのために頼りにできない人間だなどとみなされ、大人から残念に思われたり疎うとんじられたりすることになる。
しかしながら、そのように考えるのはどこか間違っている、あるいは危険とさえ言えるかもしれない。期待に応えられない子どもについて「適切な行動ができない」「情緒不安定」などと私たちの目に映るのは、その子どもが「持続的カテゴリを超えた」第3次元の理解の仕方をしていると、私たちが誤解しているからかもしれないのだ。
もし当の子どもがまだこの理解の仕方を構築していないなら、問題は、「ルールは知っているがゲームをする意志がない/したくない/できないこと」ではなく、むしろ「ルールを理解できていないこと」だと言えるだろう。そのようなティーンエイジャーはおそらくあっぷあっぷのお手上げ状態になっているが、期待を裏切られていると大人に誤解されているせいで状況はいっそう危機的だ。人間は、相手にとってそんなつもりはなかったのに失望させられる結果になったと思える場合はともかく、相手がまさにそのつもりだったせいで失望させられていると感じる場合には、思いやりを持つ気になどなれないのだ。