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コミュニティによる発達の支援とは何か
一般に、私たちは数量や、ネットワークの大きさ、距離の近さ、持続性、支援者から伝わってくる思いの強さ、そうした観点から支援を考える。これに対し、現実を意味整理する方法としての「意識の複雑さ」――その借用のしやすさ――という観点から支援を考えるとは、どういうことなのか。
ミラーは著書のなかで、こんな問いを投げかけている。とどのつまり、第3次元の意識を持つ大人は必然的に幸せになれない、あるいは成功できないリスクがあるのだろうか、という問いである。そのような大人が「幸せに満ちあふれて生きることは難しいのだろうか」と。そして次のような答えを導き出している。
そういうケースは確かにあるし、過去にはもっとたくさんあった。
(中略)
正統派ユダヤ人だけを集めた強制居住区域や100年前のアメリカ南部の黒人家庭のような、他の価値体系から切り離された文化においては、個人は自立した存在と認められなかったし、その人の支えになったかもしれない(私たちが考える意味での)個人としてのアイデンティティも存在しなかった。にもかかわらず、個人はその集団によって支援されていると感じていた。「敬虔なユダヤ人」である、あるいは「忠実な奴隷」であるという認識を持つことが、この世において個人に一定の安心感を与えたのである。無論、ここは自分のいるべきところではないと思い、そこから脱出する強さを持っていた人たちのような、例外はあったけれども。
今日においては、さまざまな価値観を持つ他のグループから孤立し続けることは、どんなグループにとってもほとんど不可能だ。そのため、個人としては、もし利害関係やイデオロギーの被害者になりたくないなら、みずからの内に支えを見出すことが必要になる。みずからの内にこういう強さを持つことは(中略)今や、当人にとってきわめて重要である一方、はるかに難しくなっている。現代の人々は、多様な価値体系に接しながら暮らしている15からである。
ミラーが述べているのは、過去にはもっと一般的だったと彼女が考える、今とは違うタイプの社会組織だ。伝統文化や非主流派の文化においては、より同質な価値と信念が、その文化の根幹に存在する。世界の仕組みやそこでいかに生きるべきかについての観念が共有されているのである。地理的な環境だけでなく精神的な環境も共有するコミュニティで暮らす場合、どのように生きるべきかについて個人が判断しなければならない機会が劇的に減少する。
そのようなコミュニティは、なんらかの宗教団体であろうとなかろうと、実質的に宗教的であり、絶えず続く祝祭や儀式や所作や象徴を通して、共有すべき中核的な信念が人々のなかにたびたび送り込まれる。そして、宗教あるいは民族、地域、市民といった枠組みで分かちがたくつながっていようといまいと、ある種の均質性が際立ち、「ロールモデル」の概念が人々のあいだに広く浸透する。年長者は誰もがロールモデルとなり、現在及び未来においてどのように行動すべきかについて若い世代の人々に伝える。そして若い世代の人々は、人生の先達との逃れることのできない結びつきと彼らへの信義から、その教えをまるで「息を吸うように」取り入れる。