敗北よりも恥ずかしいのは、諦める姿を見せること
【前回の続きです】
最後の二局はそれから四カ月後に、シンガポールで行われた。すでに大勢は、聶衛平の勝利に傾いていた。晩餐の席上での彼の態度は、自信に満ちあふれていた。
「中国人が主催する最高の大会で、中国人が優勝するのは当然だ。私の目標は優勝カップだ!」
対する私の目標は、ただ一つ。決してたやすく勝利を渡しはしないということ。最後の第五局まで粘りに粘ってやる。そのためには必ず、第四局を勝たねばならない。いよいよ対局で向かい合ってみると、晩餐の席で見せた自信とは裏腹に、聶衛平にも私に負けず劣らず大きなストレスがあることを知った。実力は五分だ。精神力が勝敗を分けるに違いなかった。
私は第二局で敗北を喫した布石を、そのまま再現した。あの時のミスを繰り返さなければ、きっと勝てるはずだ。互角に対峙して石を打ち合う時間が、じりじりと過ぎていった。黒を置けば黒が優勢に、白を置けば白が優勢に見えた。
ついにチャンスが訪れた。
碁盤がほとんど見えなくなるほど石が置かれたころに、相手が小さな失策を犯したのだ。私はそのタイミングを逃さず、すぐに最後の一手を打った。対局が終わり計算してみると、私の一目勝ち。
第五局まで行けたぞ! 何よりもそれが嬉しかった。敗北よりも恥ずかしいことは、諦める姿を見せることだ。少なくとも、韓国で全冠制覇した棋士が中国最高の棋士にだらしなく負けたとは言われたくなかった。
絶対的な静寂の瞬間、すべてのことがはっきりと見えた
勝負は原点に戻った。これまでの四局はもはや何の意味も持たず、最後の一局で世界チャンピオンが決まるのだ。聶衛平もやはり私と同じくらい、極度の重圧感に苦しんでいた。彼が一度でも動揺すれば。たった一手でもミスしてくれれば……。私はそこに望みをかけた。
対局が始まった。聶衛平は碁盤の真ん中に模様を張り、私は徹底的に地にカラく打った。私が素早く攻撃すると、彼は防御しながらしぶとくついてきた。ところが中盤になって、私の方が動揺し始めた。突然、集中力が低下して、手が読めなくなった。相手がそれを見逃すわけはない。彼は難しい手で攻撃しながら、私を窮地に追い込んでいった。私は一手一手、かろうじて防御しながら、なんとか息をつないでいた。
このまま引きずられて終わりになるのか。頭の中では、もうやるだけのことはやったのだから、石を投げて(投了して)ゆっくり休めば良いというささやきが聞こえた。頭を上げて聶衛平の顔を見た瞬間、私は正気に返った。彼はそれこそ、石を置くたびに息を殺して囲碁に集中していた。心臓が弱いのに加えて、勝たなければならないという重圧感に押しつぶされそうになりながら。私より何十倍もつらいはずなのに、彼はじっと持ちこたえていた。
落ち着け。まだ対局は終わっていない。私は気を取り直した。集中しろ。考えろ。聶衛平がハイレベルな手を打つので、それに応酬するために、私は秒読みに入りがちだった。
集中、集中するんだ……。
私は、静かな考えの深淵に潜っていった。ゆっくり、ゆっくりと……。荒かった息が、次第に落ち着いてくるのがわかった。その瞬間、周りにあるすべてのものが消えた。聶衛平も見えなければ、記録係も見えない。いらだちも焦りも、ついには勝ちたいという欲望までも消えた。囲碁と私。ただそれだけが残った。その絶対的な静寂の瞬間、すべてのことがはっきりと見えた。そうだ、ここだ!
遠くからかすかに、残り十秒を読み上げる声が聞こえてきた。一、二、三、四、五、六……。急に現実に戻ってきたことがわかった。七をカウントする声とともに、私は力強く石を置いた。
それがすべてを変えた。
今も多くの人がその奥義を知りたがる百二十九手
追われていた私が、その瞬間、主導権を握ったのだ。それからは私が攻撃し、彼が窮地に追い込まれて防御した。しかし、しばらくすると、彼はもうどこにも逃げ場がなくなった。私が百四十五手目を力いっぱい打つと、聶衛平はがっくりと頭を垂れて、投了した。
「勝った!」
検討室から韓国の応援団の歓声が響いた。ああ、勝った。私は勝ったんだ。この日の勝利は、韓国の囲碁を一気に世界チャンピオンの座に引き上げた歴史的な事件だった。その後の応氏杯でも、第二回大会で徐奉洙(ソボンス)が、第三回大会では劉昌赫(ユチャンヒョク)が、第四回大会では李昌鎬(イチャンホ)が次々と優勝し、囲碁界三国志の覇権は一瞬にして韓国のものとなった。
囲碁を学ぶ人たちは、今でもこの日行われた私と聶衛平の棋譜を見ながら討論するのだという。息詰まるような伯仲の血戦の中で、互いに稀に見る手を編み出したからだ。とくに後半、押されていた私が一瞬にして生き返った百二十九手については、今も多くの人がその奥義を知りたがる。
「秒読みまで押されていた瞬間に、どうやってそんな手を考えついたのですか」
私は答える。それは今の私にはわからない、と。私はただ、考えの中に入り込んだだけだ。私が答えを出したのではなく、考えが答えを探し出したのだ。