徳川家康が「普通の人」だからこそ「天下人」になれたワケ…“天才”信長、“アイデアマン”秀吉との比較にみる「決定的な条件」

徳川家康が「普通の人」だからこそ「天下人」になれたワケ…“天才”信長、“アイデアマン”秀吉との比較にみる「決定的な条件」

NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康は、いわゆる「三英傑」の他の2人、織田信長、豊臣秀吉と比べて地味な印象があります。しかし、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は、家康は「普通の人」だからこそ、300年近く続いた江戸幕府という完成度の高い統治システムを構築しえたと指摘します。本郷氏が著書「天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略」(宝島社新書)より、信長、秀吉、家康の違いについて解説します。

「普通の人」徳川家康

家康は信長や秀吉とは異なり、関東に政権の本拠地を置きます。もともとは秀吉により関東地方へと移封された家康でしたが、自分の政権を立ち上げるに当たっても、その関東を選びました。

 

信長や秀吉がそうしたように当時としては、大坂や京都といった畿内の経済が盛んな都市で政権づくりをするのが定石でしょう。

 

しかし、家康はそうせずに江戸を選択しました。その結果、関東は江戸時代を通じて、西国に対するそれまでの遅れを取り戻すかのように急激に発展していったのです。

 

晩年の秀吉政権の失敗は、朝鮮出兵を強行したことでしたが、こうした極端な外交政策から一転、家康は内需拡大へと動いています。もちろん、それは朝鮮出兵の失敗を受けてということでもありましたが、関東や東北を開発することで、日本はまだまだ豊かになると考えたのかもしれません。

 

なぜ秀吉は家康を潰さなかったのか。

 

東日本よりも西日本のほうが進んでいるという日本史における大原則に則るならば、関東はあくまでも僻地であり、東北はさらに辺境の地ということになります。

 

その状況からすれば、家康を関東に追いやったことは明らかな左遷であり、秀吉はそれでよしとしたのかもしれません。

 

僻地とはいえ、関東に移されたのち、二五〇万石に加増された家康は、これを逆手に取って、新たな領地の開発と運営に努め、地力を増していきました。土木工事を好んだ家康にとってはやりがいのあった仕事だったのかもしれません。

 

家康は信長、秀吉が亡くなるまで、自らが天下人になるという野心を表に出すことはありませんでした。実際に家康がそのような野望を、自ずから抱いたかというと、否だと思います。家康は信長や秀吉に比べれば、明らかに普通の戦国大名の側にあるでしょう。自分の本領を守ることを第一と考えたはずです。

 

しかし、秀吉が天下統一に向けての戦いを続ける過程で、家康もまた秀吉と戦わざるを得なくなりました。すでに賤ケ岳の戦いにおいて野戦築城と兵の機動力による戦を完成させていた秀吉は、同じような戦法で家康を攻略しようとします。しかし、この小牧・長久手の戦いで一枚上を行ったのは家康でした。

 

おそらく家康は、信長や秀吉といった先行する天下人の姿に学びながら、少しずつ自分の天下というものを思い描いていったのでしょう。秀吉が亡くなり、自分を阻む大きな勢力が潰えたとき、改めて自分の政権構想を実行に移したのです。その政権づくりにおいても、家康は歴史によく学び、のちの長期政権につながる体制の基礎を築きました。

 

苦労を重ねながらコツコツと学び、天下を取った徳川家康。まさに普通の戦国大名が天下人となったのです。家康以降、徳川の幕藩体制によって日本はひとつにまとまり、安定した政権運営が続いていくことになります。

 

本郷 和人
東京大学史料編纂所
教授

※本記事は、本郷和人氏の著書『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(宝島社新書)より一部を抜粋・再編集したものです。

天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略

天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略

本郷 和人

宝島社新書

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