「天才」織田信長
従来の戦国大名にとって重要なのは、あくまでも自分の本拠地となる土地です。
逆に言えば、自分の責任でその領地を支配する権力を有する者が、戦国大名だということになります。
その意味では、最初に天下を統一しようとした織田信長は「普通の戦国大名」とは真逆で、あまりにもかけ離れた存在でした。信長は自分の本拠地を決して特定の土地に縛り付けることはしませんでした。領土を拡張していく過程で、本拠地とはあくまでも統治に最も相応しい場所へと、次々に変えていったのです。
たとえば駿河の戦国大名・今川家では、「今川仮名目録」という自国内で使われる法律を定めています。そのなかには「駿河は今川家が誰の力も借りずに平穏に治めている国である。それゆえに駿河国のなかに今川家の手の入らない土地があってはならない」と記されています。将軍や天皇の力は借りず、駿河は今川がその責任において治める土地である、というわけです。
これがいわゆる室町幕府における守護大名であれば、名目としてはあくまでも将軍の代理であり、自らは将軍あっての存在ということになります。しかし、戦国時代における足利将軍家の存在感の薄さからしてよくわかるように、戦国大名にとってはもはや中央の力は関係ありません。
このような戦国大名のあり方を、日本中世史研究の泰斗である故・永原慶二先生(一橋大学名誉教授)は「大名国家」と呼びました。すなわち、ひとつひとつの戦国大名が、それぞれ国家なのだ、ということです。戦国時代にかけて、日本各地に「国」というひとつのまとまりが生まれ、そこに住む人々も、その「国」に帰属意識を持つようになったと考えられます。現代で言えば、それは県に当たります。その国の庶民たちは、たとえば越後の人であれば、「自分たちは越後人だ」というような意識を持つようになったわけです。
また、越前の朝倉敏景が定めた「十七カ条」では、「内政については他国の者を登用してはならない」とされています。信用できるのは同国人であり、他国人は信用できないというわけです。およそ、これが一般的な戦国大名の価値観だと思います。だからこそ、そう簡単には自分の本拠地を動かさなかったし、他国の人間を重用することもなかったわけです。
武田信玄を例に取れば、彼の本国は甲斐です。そこから信濃へと侵攻し領地を拡大すると、信玄は越後の上杉謙信とぶつかることになります。こうして、およそ一〇年にわたり「川中島の戦い」を繰り広げました。そうなると、当時でいう海津城(現在の松代城)が武田側の前線基地です。つまり上杉の軍勢を海津城で食い止めている間に、本拠地である甲府から本隊を動かして救援に向かわせることになります。ならば、いっそのこと諏訪あたりに拠点を移せば、対上杉の軍勢も動きやすく、かつ甲斐と信濃の領国全体を治めるのにも都合がよかったはずです。ところが、信玄は頑として甲府を動きませんでした。
繰り返すように、武田信玄にとってあくまでも甲斐が本国です。信濃へ領土を拡大しても、それは変わりません。
今川も駿河から遠江、三河と西へ領土を拡大しましたが、本拠地は駿河から決して移しませんでした。そこには、今川の本国は駿河であるという意識が感じられます。つまり、戦国武将にとって、守るべきものはあくまでも「自分の国」だったと言えるでしょう。
こうした戦国大名のあり方からすると、やはり織田信長の存在が際立ちます。尾張の那古野城で生まれたのち、清洲城へと移り、美濃攻めのために小牧山城、美濃を攻め取った後は岐阜城、その後、安土城へと、信長は本拠地を次々に変えていきました。先に述べたように、その次には大坂に入るつもりだったとも考えられています。
信長はその時々の戦略、政治上の目的のために自身の居城を移すことを全く厭わない戦国大名でした。その意味で、信長は戦国大名としては特異な存在だったと言えます。
武田信玄も信濃国を攻め、領土を拡大しています。今川も遠江、三河と次々に領国拡大に動いています。しかしながら、彼らは決して本拠地を動かしませんでした。これは領土拡大が一番の目的ではなく、自国領の安全を保障するための侵略に過ぎなかったのだと考えられます。つまり、本拠地を守るために、緩衝地帯となる領地を増やす、という意味での侵略です。
武田や今川と比べると、やはり織田信長は目的がそもそも違いました。彼が「天下布武」を掲げたとき、明らかに彼の構想の先にあったものは、全国の全てをまとめて、日本という国を統一することでした。
「天下統一」というビジョンを打ち出し、「日本をひとつにする」と考えた戦国大名は、信長が初めてだったのです。
つまり、信長は「天下布武」というビジョンを初めて提示したという意味で、「天才」的だったと言えるでしょう。